昔はピアスに金髪のツンツン頭
農林水産省の統計によると、2022年の漁業と養殖業を合わせた生産量は391万6946トンで、前年比マイナス5.8%。統計を取り始めた1956年以降、過去最低を記録した。ピーク時に比べて長期的な減少が目立つのは、サンマ(1958年比マイナス96.8%)、スルメイカ(1968年比マイナス95.4%)、タコ類(1958年比マイナス78.3%)など。イカを主力に扱う鈴木さんの「共和水産」も大きな打撃を受けた。イカの漁獲量が少なくなったことで価格が上がり、原材料費は高騰した。利益が圧迫されたことに加え、エネルギー価格の急騰も重なり、資金繰りが悪化していった。結局、2023年10月に負債総額約9億1800万円を抱え、盛岡地方裁判所に民事再生法の適用を申請した。
「せっかく、(震災を)乗り越えたのに……」
当時、鈴木さんは記者にも沈痛な気持ちを明かしていた。
民事再生で経営を立て直す方法としては、「自力再建型」「スポンサー型」「精算型」の3つがあるが、「共和水産」は毎月ごとに赤字が膨らんでいたことから、自力再建は断念。鈴木さんは「スポンサー型」での再建を目指した。
それから8カ月間。なんとか会社を“再生”させるために、今度はスポンサー探しの旅が始まった。
鈴木さんは1981年、4人兄弟の三男として宮古市で生まれた。小さいころから、「共和水産の息子さんね」と地域の人たちには知られた存在だった。
中学、高校は宮古市内の公立学校へ通い、6年間、軟式テニス部で活躍。高校では県大会で3位になるほどの腕前で、2000年4月にはスポーツ推薦で仙台市にある大学へ進学した。
「大学に入って初めて華やかな都心での生活を知りました。そのぶん、遊びたい気持ちが強かったですね」(鈴木さん、以下同)
大学に進学したものの、遊びやバイトに明け暮れた日々を過ごし、進級時に単位が全く取れず、02年の春に大学を自主退学した。その後は、仙台市の繁華街・国分町にあるダイニングバーで働いた。
「その時は耳や鼻にピアスをつけて、金髪のツンツン頭でした。毎日、遊びほうけていましたね。地元(宮古市)では『あいつはホストになったんか』というウワサが流れていたみたいです」