ハット姿からも色気を感じさせるジュリー

時代と一体化する生き方をやめた

 では、なぜ彼はそうなれたのか。

 ソロとしてヒットチャートをにぎわせた時期、彼は「一等賞」という言葉を好み、実際にそれを目指し続けた。そのためには、時代と一体化しなくてはならない。80年1月1日には、その後のバブル景気を予言したかのような「TOKIO」をリリース。電飾スーツを着て、パラシュートを背負うパフォーマンスで驚かせた。

 その一方で、芝居もこなし、仲の良かった志村けんとコントもやる。時代の先読みもしながら、あらゆるエンタメ的サービスに努めていたわけだ。山口百恵やピンクレディーのように数年間ならともかく、十数年も続けるのは心身がかなり疲弊することだろう。「TOKIO」の次の次のシングル「酒場でDABADA」には「急いで生きたら三十いくつ」という詞があるが、それこそ、若くして過労死もしかねない勢いだった。

 そのせいか、彼の活動は80年代後半以降、ペースダウンしていく。「一等賞」にこだわり、他者と競争するようなスタンスを捨て、時代と一体化するような生き方もやめたのだ。

 彼を世に出した渡辺プロダクションの創業者が亡くなるなど、芸能界でも変化が起き、ヒットチャートの中心も彼より若い人たちへと移っていた。また、派手なパフォーマンスへの志向はもろ刃の剣でもあり、80年には盟友だったバンドマン・井上堯之が音楽観の違いから去ってしまう。時代を追い過ぎたことの反省や疲れ、さらにはやりきった感も重なり、そろそろいいか、という心境に至ったのではないか。

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