鶴丸高校の中庭に、この言葉を金文字で書いた碑があった。母校では、いまもこの言葉を、教諭や生徒が大事にしている。そう思うと、とてもうれしい。講堂に入ると、あの校長の写真も飾ってあった。
定年退職する化学の先生が最後の授業で言った「教養とは、はにかむことである」も、忘れられない。まだ10代の自分たちに、素晴らしい言葉をくれた。太平洋戦争時に忘れることができない辛い経験をしたためか、いつもうつむき加減にボソボソと話した。このときも小さな声ではあったが、言葉は胸に、まっすぐ飛んできた。30代以降に教養豊かな財界人や学者と論じ合ったとき、驕る思いが湧くことなく過ごせたのは、この言葉の力だったのだろうか。
もう一つが「ワリカシヨクデケマシタ」だ。部活の体操部の練習に明け暮れて勉強時間が乏しかったなか、世界史で100点満点の20点しか取れなかったとき、答案用紙に赤鉛筆で「ヨクデケマシタ」と鹿児島弁で書き込んだ教諭。「面白い先生だな」と思わせて猛勉強を誘い出し、次に満点近い成績を取らせて、今度は「ワリカシ」を付けてきた。
「やればできるよ、まだまだ先はあるよ」との示唆が、含まれていたのか。常に「前へ」と進む道を選んできたのは、桜島の姿がくれた「何とかなる」のおおらかさに「ワリカシ」の示唆が、重なっていた気もする。
部活をした体育館を巡ると、そんな日々が、次々に浮かぶ。
計画性もないなか次々に仕事を呼んだ財界人らとの出会い
出会った人たちが道を広げてくれたことは、まだまだある。96年春に埼玉大学大学院の政策科学研究科で助教授となり、1年半後にその研究科が独立して政策研究大学院大学になった。2001年4月に教授へ昇格して1年後、内閣府へ転じて経済財政諮問会議を運営。いったん教授職へ戻った後、さらに06年9月に第1次安倍内閣で諮問会議を受け持つ内閣府特命担当大臣に就任した。