人生の軸は変えないが様々な人との出会いが進路は変えてくれた。いつも桜島にもらった大らかな気持ちから、「何とかなるだろう」で前へ進み続けてきた(写真:狩野喜彦)
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 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年7月1日号では、前号に引き続き政策研究大学院大学・大田弘子学長が登場し、「源流」である故郷の鹿児島市を訪れた。

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 1976年に一橋大学を出てから2年間、東京の会社で社内報をつくっていたが、どうしても受け入れることができない同僚がいて辞めた。故郷の鹿児島市へ戻り、母と一緒に、体調を崩していた父のそばにいた。

 毎日のように、街の各所で錦江湾に浮かぶ桜島が目に入る。子どものころから「ドーンと、そこにある」と表現してきた姿が、大好きだ。今日まで、難しい選択が生じるたびに「何とかなるだろう」と、前向きな気持ちを起こしてもくれた。

 3年後に再び東京へいき、大学の先輩の紹介で、生命保険文化センターの嘱託研究員になった。金融自由化などのリポートを書き、12年いた。「生活経済評論家」として原稿を書き、テレビの討論会にも出る。

 ここで、大きな出会いがあった。大阪大学経済学部の蝋山昌一名誉教授と、やはり阪大の本間正明教授の知己を得る。2人の紹介で93年、阪大経済学部の客員助教授となり、新しくできた企業の寄付講座で「リスクと情報の経済学」の講義をした。3年続け、大学の先生は「発言の自由」と「生活の安定」が両立する仕事だ、と頷く。

 この4月下旬、故郷の鹿児島市を、連載の企画で一緒に訪ねた。実家があったところから近い城山にあるホテルへ入ると、部屋の窓から「ドーン」と桜島がみえる。大田弘子さんが人生の『源流』になった、とする姿だ。外へ出て、近くの展望台からも、じっくり眺める。

 1954年2月に生まれ、幼稚園へ入るころから城山の麓で育つ。その幼稚園と、近くにある小学校を訪ねた。小学校で城山への登山競走があり、走って上る。足は速く、のちに大学の陸上部で200メートル競走の選手になった。

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