それは1998年に文藝春秋から刊行された『死の貝』(小林照幸)という本だった。

 が、その本自体はすでに絶版になっており、アマゾンの中古では1万円以上の価格で取引されている。

 そこで井上はひらめき、新潮社営業部の河井嘉史(よしふみ)に電話をする。

「河井さん、ウィキペディア三大文学って知っていますか?」

死んでいた本を生き返らす

 新潮社は、「三毛別羆事件」については、吉村昭の『羆嵐(くまあらし)』を。「八甲田雪中行軍遭難事件」については新田次郎の『八甲田山死の彷徨』を新潮文庫でもっていた。いずれも毎年約1万ずつ版を重ねるロングセラーで、『羆嵐』は58刷46万9000部、『八甲田山死の彷徨』は、100刷135万4000部を数えている。

「これに『死の貝』を文庫で加えることができれば、三大文学コンプリートします。もし文庫で復刊してくれたらば、全国の未来屋書店241店舗で、大展開します」

 井上はこのとき上司に相談して、河井に電話したわけではない。いける、と思ったので電話したのだった。いいよね、そういう社風。

 河井はまず本を読まねばと思ったが、アマゾンで調べると一番安い中古でも9000円を越える。河井は上司に断って、経費でこの中古品を入手し読んでみた。

 実は、小林照幸さんの『死の貝』は、私が文藝春秋にいた時代に出ている。ただ、小林さんが懇意にしていた編集者が文芸の編集者だったために、ノンフィクションであるにもかかわらず、文芸の局でこの本を出版している。

 そうした背景もあったのだろうか、初版は6000部で、実売は4000に届かずに終わった本だった。私の記憶にもほとんどなかった。

 この本は、今回文庫で私も読んだが、ノンフィクションでありながら、ミステリーの趣がある。原因不明だった奇病が、寄生虫が原因であることがわかると、その寄生虫がいかにして人体に侵入するのかという謎が今度は提起される。患者の糞の中にある卵から孵化した微生物は、水の中を勢いよく泳ぐが、しかし2、3日で死に、動物の体に入らない。

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