公立高校を男女共学にすべきか否か──。長年にわたって繰り返されてきた議論が、 いま再び活発化している。どんな視点から向き合うべきなのか。教育史研究者の友野清文さんと、 教育現場に精通するジャーナリストのおおたとしまささんに議論してもらった。AERA 2024年6月17日号より。
* * *
「県立の男子高が女子の入学を拒んでいるが、入学は認められるべきだ」
埼玉県で議論になっている県立高校の共学化問題。発端は県民から寄せられた1件の苦情だった。これをうけて県の第三者機関である男女共同参画苦情処理委員は昨年8月、女子差別撤廃条約(1985年批准)に触れつつ「『男女共学』での教育が奨励され、男女の役割の定型化された概念の撤廃が求められている」などと「早期の共学化」を勧告。県教育委員会は今年8月末までに委員への報告を求められている。
こうした勧告は2002年に続き2度目。「男子校を残すことも一つの多様性」「共学で多様な異性観を学ぶべき」など、別学、共学を推進するそれぞれの立場が論点を提示、何度となく繰り返されてきた議論だ。しかし、そこには欠けている視点があるのではないか──そんな指摘から対談は始まった。
友野:私は今回の勧告に関する「共学化すれば男女共同参画が進む」という議論は、単純すぎると思っています。別学でも共学でも、本当に求められるのはジェンダーの「公正さ」。男女が同じ教室にいてもそこに不平等が存在すれば公正ではないし、男女が一緒に過ごすことを生かしたジェンダー教育がなされていなければ共学とはいえ「異性観を学ぶ」ことはできないでしょう。
共学は教育における男女平等の「必要条件」であっても、「十分条件」ではない。学校がどんな教育方針でジェンダーの問題と向き合うかが重要。原則は共学でも、「男女を分けること自体が差別」というレベルの議論では一律共学化の根拠として弱いと思います。
おおた:議論の前提として共有すべきなのは、「学校単位で必ず機会の平等が保たれているべきなのか。それとも複数の学校を一つのシステムととらえて、全体として機会の平等が保たれていればいいのか」という観点です。