自立もたらした迷子体験(写真:狩野喜彦)

『源流』は、少年時代に育まれた科学技術への関心。流れ始めたのは、故郷の神奈川県大磯町だ。1953年11月に生まれ、両親と姉の4人家族。父は戦前、中国の南満州鉄道に勤め、大磯町出身の母と結婚する。戦後、生まれてまもない姉と3人で帰国し、東京・神田の交通博物館で副館長を務めた。NECに入社して多忙になるまで、大学院時代に学校から近い東京・大岡山に部屋を借りた以外は、大磯から通った。温暖な地で、おおらかな性格が形成される。

 幼稚園のとき、園長が人工衛星が上空を通過する時間を調べて、園児を相模湾に面した砂浜へ連れていってみせてくれた。はるか高く、白く光る粒が動いたのを、いまも覚えている。科学技術への関心が湧き、『源流』の水源が生まれた瞬間だ。

米大統領の暗殺をリアルタイムで観て科学技術の力に頷く

 大磯小学校4年生の63年11月23日、日米間で初の衛星によるテレビ中継があった。観ていたら、ケネディ米大統領が暗殺され、衝撃を受ける。同時に、海の向こうで起きたことを電波でリアルタイムに報じた衛星通信に、驚いた。「科学技術はすごい」と頷き、水源から湧き出た『源流』が流れ始める。

 小学校から算数が好きで、大磯中学校でも県立平塚江南高校でも数学に打ち込み、進路は東京工業大学工学部の電子工学科を選ぶ。大学院の修士課程、博士課程へと進み、電磁波の研究で工学博士の学位を取得。ただ、研究生活に残るつもりはなく、学んだ無線の世界で就職先を考えて81年4月、日本電気(NEC)へ入社した。

 配属先は、横浜事業場のマイクロ波衛星通信事業部。地上マイクロ波の中継や衛星通信用アンテナの開発に参加し、以後20年余り、衛星通信や携帯電話の基地局などを手がけた。「インマルサットM」の開発に成功した後、課長から担当部長へ昇格し、さらに小さいA4判サイズの「インマルサットミニM」の開発も指揮をする。

 2003年4月、横浜事業場でモバイルワイヤレス事業部長になった。ここで、無線装置の品質を上げるため、自らに言い聞かせたのは「トップは部下たちに『ぶれている』と思われては絶対にいけない」だ。毎日、通勤電車でつり革につかまりながら、部下たちにどう言えば思いがきちんと伝わるか、考えた。短いフレーズで、言えば誰もが「あれだな」と分かるのがいい。選んだのが「Strong Will」だ。

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