高麗大時代に韓国ナショナルチームのエースとして活躍した趙は、早くから海外でのプレーを望み、高校3年のときに大学進学を理由にドラフト指名を断っていた。「指名するなら、大学を卒業してからにしてほしいと言って逃げていた」(週刊ベースボール95年11月25日号)。

 大学3年の94年10月、広島で開催されたアジア大会の際に、巨人中日の“10・8決戦”をテレビで見たことがきっかけで、巨人入りを決意。翌年の韓国のドラフトで指名される前に巨人と8年契約を交わした。

 1年目は肩を痛めて出遅れたが、翌97年は7月以降抑えに定着し、1勝11セーブを挙げた。

 そして、3年目の98年は先発ローテ入りし、6月6日の中日戦で3安打完封を記録するなど、前半だけで7勝と大活躍。オールスターにも初出場をはたした。

 だが、7月23日のオールスター第2戦、8回から登板した趙は9回1死後、突然右前腕部に異変を感じ、治療のためベンチに下がる。本人は交代を訴えたが、全セ・権藤博コーチ(横浜監督)は「いけるだろう」と続投させたといわれる。同年の横浜は38年ぶりの優勝がかかっており、前日登板した自軍の佐々木主浩を連投させたくなかったからでは?の憶測も飛び交った。

 趙は2死満塁のピンチを招きながらも無失点に抑えたが、球宴後、右肘炎症と診断され、シーズン後半を棒に振った。ここから野球人生は暗転する。

 翌99年春に右肘内側副靭帯の断裂が判明。手術を経て、00年に10試合、02年に6試合に登板も、復活にはほど遠く、02年オフ、契約を1年残して自らの意思で退団。帰国後はハンファでプレーし、斗山のコーチも務めたが、13年1月、私生活でのトラブルなどから、39歳の若さで自ら命を絶った。

 韓流スターも顔負けのイケメンで、“デウン様”の呼称で女性ファンを虜にしたのが、15年にロッテ入りしたイ・デウン(李大恩)だ。

 入団時からイケメンぶりが評判になり、シーズン前にもかかわらず、外国人選手としては異例のグッズ販売が行われる人気ぶり。同時期に話題をさらった巨人・マイコラスの“美人妻”ローレン夫人に対抗意識を燃やし、「マイコラスの奥様には負けません」(球団担当者)と大々的に売り出す構えを見せた。

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シーズン前から異例の人気!本職の野球では?