では、この日本人の踊りに対する羞恥心、音楽に対するシャイネスは何に起因しているのか。それは、日本を含めアジアの国々に古くから根付く「全体主義」の美学にほかなりません。一糸乱れぬ集団行動は、例えば世界中の軍隊でも見られる光景ですが、こと日本においては、幼少期から「礼」に始まり「礼」に終わる躾や教育を受け、冠婚葬祭での儀式も非常に画一化されています。感情の放出など二の次、三の次。さらに暮らしのあらゆる場面で、こんなにも「整列」という秩序を保てるのは日本人ぐらいだという統計もあるとか。町の盆踊りや、各地の祭りを彩る踊り(阿波踊りやよさこいなど)も、よく見ると全体主義性の極みだったりします。

 スポーツ観戦における応援も、他のアジアの国や旧共産主義国には及ばないとは言え、充分に画一的です。言い換えれば、個人や個性よりも、集団や社会を形成することに重きを置いているわけで、この美意識を私は決して悪いものでもダサいものでもないと思っています。
 

 しかしながら、この美意識を、ひとたび西洋発信の大衆音楽(ポップス・ロック・ヒップホップなど)の場に持ち込むと、途端に妙なことになるというのも事実。そこを星野源さんは指摘されたかったのでしょう。

 様々なコンサートやショーを観に行くたびに実感するのが、「詳細な“決め事”を課せられない限り、日本人は自由に踊ったりノッたりするのはまだまだ難しい」という現実です。たとえお酒が入ったとしても、最終的に人々が求めるのは「一体感」であり、決められたリズムで手を左右に振ったり、拳を上下させたり、コール・アンド・レスポンスをしたりすることが、音楽ライブを消費する際の肝になっている感は否めません。

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