「柱」という呼称に隠された意味
そもそも、鬼殺隊の実力者をなぜ「柱」と呼ぶのかは、かつても話題になったことがある。日本の神話に登場する神々を数える時に、ひと柱、ふた柱、と数えることも関連がありそうだ。たしかに、彼らが日輪刀という「聖なる武具」を使い、人知を超えたパワーを発揮すること、鬼という邪悪なものを討ち滅ぼすことから、神々を彷彿とさせるその呼称は彼らにふさわしいものだといえよう。
しかし、「柱」とは、もともと「物を支えるためのもの」の意味である。そこから「鬼殺隊を支える者」と考えることもできよう。鬼が何度人間を襲っても、鬼殺隊を滅ぼそうとしても、「柱」がそれを支える。“人の柱”が犠牲となって、人の世を混沌(こんとん)から救うのだ。
たとえば、第66話「黎明に散る」で、無限列車200人の乗客と後輩隊士たちをひとりも死なせなかった炎柱・煉獄杏寿郎の言葉が思い出される。彼はたくさんの血を流し、それでもほほ笑みながら死んでいった。
「俺がここで死ぬことは気にするな 柱ならば 後輩の盾となるのは当然だ 柱ならば 誰であっても 同じことをする」(煉獄杏寿郎/8巻・第66話)
「ヒノカミ神楽」と火/日
もうひとつ重要なのは、柱たちが使う「呼吸」の種類だ。水、炎、雷、岩、風…など柱たちはさまざまな「呼吸」の使い手だが、刀鍛冶の里で見つかったカラクリ人形「縁壱零式」のモデルとなった、最強の剣士・継国縁壱(つぎくに・よりいち)が使う剣技こそが、この「呼吸」の頂点にあるものだった。
「燃える刃 赫刀 無惨様の記憶 無惨様を追い詰め その頚を斬りかけた剣士の刀 姿が重なる」(半天狗/13話・第113話)
半天狗を追いつめた炭治郎の「ヒノカミ神楽」は、「日の呼吸」を放つ縁壱の姿と重なる。炭治郎の父が舞っていた「ヒノカミ神楽」の由来を、炭治郎の母は「ヒノカミ様」にささげるための舞だと説明していた。実は「ヒノカミ」は「火の神」ではなく「日の神」なのだ。縁壱が生み出した「日の呼吸」が「ヒノカミ神楽」となって、それを竈門家が後世につないだ。この剣技が鬼舞辻無惨を倒すための鍵になっていく。