だが、「火中の栗を拾う」覚悟で藤田元司監督が指揮をとった翌81年は、長嶋監督時代の“地獄の伊東キャンプ”を体験した若手たちが一気に花開く。篠塚利夫が首位打者争いを演じ、リーグ2位の打率.357、“絶好調男”中畑清も打率.322(リーグ7位)をマーク。さらにはドラ1ルーキー・原辰徳が22本塁打で新人王に輝くなど、若い力が台頭し、V9以来8年ぶりの日本一を達成した。
次に1990年代を見ると、長嶋監督復帰1年目の93年がチーム打率.237で、13年ぶりにリーグワーストを記録した。
チームの最高打率は2番・川相昌弘の.290(リーグ10位)で、得点源となる主軸に故障や打撃不振が相次いだことが響いた。
4番・原はアキレス腱痛再発などから初めて規定打席未満(打率.229、11本塁打)に終わり、新外国人、ジェシー・バーフィールドもチームトップの26本塁打ながら、規定打席到達者最下位の打率.215(29位)と確実性に欠けた。
また、前年まで2年連続3割をマークした駒田徳広も打撃不振から5月に連続試合出場記録が「307」で途切れ、5月までにチームトップの8本塁打を記録した大久保博元も死球骨折で長期離脱するなど、負の連鎖が続いたことも貧打に拍車をかけた。
原をはじめ、80年代以降5度の優勝に貢献した主力が晩年を迎え、新4番が必要なチーム事情から、翌94年は中日から落合博満をFA補強。松井秀喜との新3、4番が功を奏し、5年ぶりの日本一を実現した。
75、80、93年とチーム打率がリーグ最下位を記録した翌年に、いずれもリーグ優勝や日本一を達成しているのは、打線のテコ入れに成功し、投打がかみ合った結果でもある。
FA制度が定着した90年代後半以降、巨人は毎年のように大型補強を繰り返し、重量打線を売りにしていたが、意外にも堀内恒夫監督時代の2005年(.260)、第2次原政権の初年度、06年(.251)と、チーム打率は2年連続リーグ最下位だった。
2割5分、6分台なら貧打とは言い難いが、4連覇を狙った第二次原政権最終年の15年には、チーム打率.243で9年ぶりのリーグワーストとなった。