毎年強力打線を看板にしているイメージが強い巨人だが、打撃は水物。今季もチーム打率.228がリーグ5位(5月9日終了時点)と打力不足に苦しんでいるが、これまでも貧打に泣いた年もある。
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まず球団史上初の最下位に沈み、チーム打率もリーグワーストの.235に落ち込んだのが、長嶋茂雄監督就任1年目の1975年だ。
前年はV10を逃したとはいえ、チーム打率はリーグ3位の.253と、それなりに打てるチームだった。
だが、翌75年は、王貞治とともに“ON”として長年打線を引っ張ってきた長嶋は言うに及ばず、V9時代を支えた捕手・森昌彦、遊撃手・黒江透修の両ベテランも引退。守備面とともに打線にも少なからず影響が出た。
そんななかで、4番・王が打率.285(リーグ10位)、33本塁打、96打点と孤軍奮闘したが、前後を打つ淡口憲治(打率.293、12本塁打、42打点)、末次利光(打率.252、13本塁打、46打点)がともに規定打席未満で、中軸の迫力不足は否めなかった。
本来なら、ここには長嶋の後釜として新外国人のデーブ・ジョンソンが入るはずだったのだが、打率.197、13本塁打、38打点と期待を裏切り、“ジョン損”とこき下ろされたのも大誤算だった。
翌76年は、クリーンアップ強化を重要課題に新3番として日本ハムから張本勲を補強し、王とともに“OH砲”を形成。リーグトップのチーム打率.279で最下位から優勝という快挙を実現した。
順位は3位ながら、チーム打率はリーグ最下位の.243と再び貧打を露呈したのが、第1次長嶋政権最終年の1980年だ。
4番・王が30本塁打を記録したが、打率.236は規定打席到達者30人中最下位。巨人移籍後、2年連続で3割と二桁本塁打をマークしたジョン・シピンも打率.224、9本塁打と不振を極めた。
V9と76、77年の連覇に貢献した王もすでに40歳。柴田勲、高田繁の両ベテランも現役晩年を迎え、若手も成長途上という状況下で、打力低下は当然の結果だった。
シーズン後、3年連続V逸の長嶋監督は解任され、王も現役引退。V9巨人の象徴でもあったONが揃って表舞台を降り、ひとつの時代が終わりを告げた。