本をひらく。気づけば、遠く、声が浮かんでいる。

 漂っている、とおもっていたら、みるみるうちに、皮膚をかすめ、うしろのどこかへ消えてしまう。つぎつぎと、声はやってくる。音をこえた速さで。光の、あるいは、それ以上の速さで。あまり頻繁にやってくるものだから、いつのまにか僕の耳、僕のからだは、おもってもみない、妙なかたちにねじくれている。ひょっとして、鬼のかたちに。

 物語がひらめく。白い光、黒い光が、明滅をくりかえす。

 色はここでは、政治的ななにかを、強く語らない。ただ白く、ただ黒い。どちらの光も、土と血にまみれ、精液と羊水にひたされている。未来は強い過去によって約束され、糸巻きからほどけた紫色の糸で、かたくかたく縛られている。

 まず登場するのは、少女、14歳。1850年代半ばのあるとき、ケンタッキーに住む大きな男、母のまたいとこに、みずからの意思でとつぐ。その意味もわからないうち。父のくびきから、なんとかすりぬけようと。

 別の少女が、ふたり、待ちうける。12歳と10歳。この家で生きぬく、黒い方法を、遠くからやってきた少女に、ふたりは教える。少女もふたりに、故郷インディアナで得た白い知見、おくりものを、ふたりに授ける。三人は重なる。手をつないだこともある。

 こうしたことすべて、ケンタッキーでの物語は、何十年ものち、さまざまな光をこえ、いまは別の場所におちついた、むかし14歳だった、老女の声によって語られる。

 14歳の少女を、男は、自分の寝室にこさせる。男は鞭うつ。蹴り、殴りとばす。インディアナからもってきた本をすべてかまどに投げ込む。10歳の少女に、井戸に入るよう命じる。男は、鬼なのか。少なくとも、優しくはない。男は人間だ。だからこそ、三人の少女、ほかの誰とも、通じ合うことがない。

 男が家にいないとき、下働きのアルコフィブラスが、「話」を語る。三人の少女はみぶるいしながら聞きいる。アルコフィブラスは「話」のあいだぜったいにまばたきしない。話が終わると少女たちは、くすくす笑いもせずしずかにあるきもどっていく。

 いくら捨てても捨てても、ひとりでに、上着のポケットに戻っている黒い樹の皮。女の涙をもう飲めなくなるまで飲み干し、クルッと丸まった、ぬれたパイだね。足くびの縄を断ちきって、石炭小屋から逃げだした、知恵のあるタマネギ。

 読んでいて、みぶるいがでる。「話」のちいさな炎がこちらの芯に飛び火する。少女のひとりも、咳の発作がおさまったとき、アルコフィブラスが教えてくれたかどうか思いだせないけれど、といって、「話」を語る。むかし、ひとはみな、なかでロウソクが燃えている、頭ガイコツだったと。ピョンピョンと跳ね、機会あるごとにほかの動物たちを殺し、毛皮やカギ爪を奪いあっていたと。火の神は呆れ、冷たい風を送り、ロウソクの火をすべて吹き消したと。

「話」が、たがいの背中に貼りつく。何重にも、何重にも。みなが、それぞれの「話」から、逃れようともがく。

 脱走する。名前をかえる。あるいは、もともとの名で、呼んでもらおうとこいねがう。消え去り、生まれる。あたらしい生の時間をあたらしい相手と重なりあって過ごす。

 ほんとうに、逃れることなどできるのか。「話」、ストーリー、ヒストリーは、たえず先まわりして待ちかまえ、暗がりで足を引っかける。あるいは、カマのようなもので足くびをはねる。

 少女たちには、わかっている。背中に貼りついて、泥の底に沈めようという「話」があれば、大切に、胸の底におさめ、ときどきふたをあけてそっととりだしてみるような「話」もあると。

「話」以上の「話」。人間をこえた人間。それは、相手からとるだけでなく、みずからを相手にさしだす、そんなかんたんなことからはじまる。とられっぱなしだった少女たちには、それが、深いところでわかっている。声を、みずからの声を取りもどし、遠い相手に呼びかけ、引きわたすこと。紫の糸を指にまきつけ、忘れないこと。

 日本語を、英語をこえ、少女たち、男たちの声が、いま、ここにやってくる。ねじくれるような切実さ。ここにあふれている声、「話」を、ひとかけらも余さず、僕は、覚えていようとおもう。

 これは、鬼の話。鬼たちの話。首筋にかみつき、目にカギ爪をねじこみ、罵りあい、喰いあうものたちの話。

 互いに鬼だからこそ、わかりあえることもある。鬼は鬼を知る。鬼を相手に、真に優しくふるまえるのは、いつだって鬼だ。