経営の立て直し策を練る任務だけに、ホテル内の割烹やレストランは使えない。元町にあるホテル幹部の馴染みの店で、夕食でちょっと飲むのが唯一の楽しみだった(撮影/狩野喜彦)

 この経験が、「本体」と呼ぶホテルオークラ東京の改革の担い手役をもたらす。日本経済の長期デフレ化に海外のトップ級ホテルの日本進出が加わり、国内で最高級の評価を得てきたオークラ東京も、経営に厳しさが増していた。前号で触れたように、神戸から帰京して半年後、臨時に設けられた全社的な業務改革本部へ呼ばれ、バブル期に膨らんだ「負の資産」の整理に着手。豪華な独身寮兼研修センターや伊豆高原の保養所の売却など、米国留学で得た財務・会計の知識と、資産の開発に縁を持つ「しがらみ」のなさを、思い切って活かす。『源流』からの流れが、広がりをみせていく。

まずいった会議室いまも残っていた細かく吟味した文書

 改革が軌道に乗ると、43歳の若さで社長に就任。海外展開で競合することが多かったホテルへ資本参加し、さらに子会社化する。長年の懸案だったオークラ東京の本館改築にも、踏み切った。国内外で激しさを増す競争に勝ち抜けるように、体力を強化した2大決断だ。

 これらのすべてが、あの神戸の小部屋で始まった。実は『源流Again』の取材が始まる前、オークラ神戸に早めに着いて、真っ先にいってみた。すると、26年前に聴き取って書いた文書が、保存されている。

「各部門の組織はどうなっていますか」「売り上げ増進策はどう考えていますか」「情報処理はどうやっていますか」など、当時のやり取りが書いてある。

 まとめた資料をみると「費用がどれだけ削れるか、5億円から7億円くらいではないか」とあった。食事の原材料費や水道・光熱費など、削減策を細かく吟味している。

 社長になって6年後、神戸の社長交代に立ち会って以来だから約10年ぶり。港町を代表する元町商店街へもいった。聴き取りが終わった後、五島さんとよく食事にきた。管理部の幹部のいきつけの店で、午後7時半くらいに合流。食べながらちょっと飲んで、ホテルへ戻って、聴き取りの結果を整理する。

先輩たちに退任を告げる重い役に眠れずにいた上司

 明るいうちに中華街を歩き、原色が多い装飾や通りの賑やかさに驚いた。当時は夜にきて、暗くて気がつかなかったのか。ホテルへ戻る途中のコンビニで翌朝用のおにぎりを買い、昼食は従業員食堂だったことも、覚えている。その食堂で、この日はラーメンを食べた。

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