だが、羽田空港でカウンター業務をしているときに、高木大成(慶応大-西武)らプロ入りしたかつての同期生たちが遠征に出かける姿を目の当たりにするうち、「プロ入りの夢を叶えたい」の思いが再燃。入社2年目の1997年、スポーツ新聞で広島が入団テストを行うことを知ると、打者よりは左投手のほうが合格の可能性が高いと考え、会社を辞めて、広島の秋季キャンプに参加した。

 テストには合格したものの、同年のドラフトでは、編成上の都合で指名が見送られたため、翌98年、練習生としてドミニカのカープアカデミーに野球留学。約8カ月にわたる武者修行を経て、同年のドラフトで8位指名された。

 そして、99年9月29日の阪神戦、5回表2死からリリーフした広池は7対5とリードのその裏、2死無走者で打席に立った。

「ランナーが出れば、(打順がトップに回り)何とかなる」と気合十分の広池だったが、部坂俊之の球は思ったよりキレがあり、振り遅れてしまう。だが、ファウルを打っているうちにタイミングが合ってきた。

 自著「入団への道~夢をつかむまでの軌跡」(ザメディアジョン)によれば、直後、三塁側ベンチから野村克也監督の「バッティングいいぞ、気をつけろ!」の声が聞こえてきたという。

 この指示を受けて、阪神バッテリーが攻め方を変えてくる可能性も考えられたが、「構わん。真っすぐ狙いだ。変化球が来たら三振でいい」と開き直り、次の外角寄り直球をおっつけて打つと、快音を発した打球は、投手としては91年のオリックス・シュルジー以来、通算6人目の初打席初本塁打となって、左翼席に吸い込まれていった。

 これで8対5。次の6回を抑えれば、プロ初勝利の可能性もあったが、2死後、自らのグラブで触れた打球が右前に抜けるという不運な失点を許し、交代を告げられた。

 その後、02年4月14日のヤクルト戦でプロ初勝利を挙げるなど、通算9勝を記録した広池だが、本塁打はルーキーイヤーの1本で終わっている。

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“小ブラゼル”の異名をとった和製大砲も