2千人近くのファンが総立ちで「勝手にしやがれ」を大合唱する沢田研二ショー。1週間で2万5千人の観客を動員した=1978年1月ごろ、東京都千代田区有楽町の日劇

「当時は、“男は男らしく、女は女らしく”な時代でマッチョな価値観が強かった。そんな時代に沢田研二は、メイクをし、カラーコンタクトを着けていました。ある意味、ギリギリの線を過激に攻めていて、しかし決して滑稽には転ばず、本当に格好良かったですね」

 ちなみにスージー鈴木氏が沢田研二に魅了されたのは、高校生の頃。『晴れのちBLUE BOY』(83年)だったそうだ。

とんでもないロックだ!

「小学生時代は日本レコード大賞に輝いた『勝手にしやがれ』などを歌謡曲として聞いていましたが、沢田研二は、山口百恵やピンク・レディーなどと同列の、スターのひとりという感じでした。

 高校二年生のとき、リリースされた『晴れのちBLUE BOY』は、作曲が大沢誉志幸、作詞は銀色夏生、編曲は大村雅朗で、それまでの歌謡曲とは全く異なる、ジャングルビートが鳴り響くもので、まぁ、とにかくロックでした。

 フジテレビの『ドリフ大爆笑』とかで『晴れのちBLUE BOY』を歌うんですが、サビの歌詞”言いたいことはヤシの実の中”に、高校生の私は、なんて歌詞だ!? と衝撃を受けました。“ヤシの実の中に何が入ってんねん!?”と(笑)。でも、そんなとんでもない歌詞こそがロックだと思い直し、沢田研二流のロックンロールに気が付いたんです」

 高校生時代のスージー鈴木氏にとって、沢田研二はロックそのものだった。

「83年のNHK紅白歌合戦で沢田研二は『晴れのちBLUE BOY』で出場しました。衣装や演出が過激すぎて、歌い終わったときに司会のタモリは“歌う日露戦争”だと表現しました。

 その紅白を見たときにも“この人は挑戦しているんだな”と思った。そこから過去の楽曲に遡っていったという感じですね」

 そして、音楽的な面だけでなく、沢田研二は生き様でも人々を魅了するとスージー鈴木氏は言う。それは、「自然体」であることだ。

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