政治学者の姜尚中さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、政治学的視点からアプローチします。
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衆院の政倫審が閉会し、新年度予算案が衆院を通過しました。ただ、政倫審が終わり、予算が通ったからこれで一件落着とは言えない問題があります。
一つは政倫審から見えてきた自民党の空洞化という問題です。政倫審は、政治家の行為規範を問い、勧告をする、強制性や罰則もない「ゆるい」機関です。にもかかわらず、そこに出席する条件闘争で疑惑の政治家たちがゴネ、結局、岸田文雄総裁が現役の総理大臣として出席するという「奇策」で事なきを得ました。揃いも揃って小心翼翼として自らの潔白を繰り返すばかりの政治家たち。一国の総理が、問い詰められて「在任期間中はパーティーをやらない」と言質を取られるに至っては、この国の政治が凡庸さを絵に描いたような政治家によって動かされている現実を知らしめました。かつての自民党には、石橋湛山や野中広務といった、自分の思想、信条に殉ずるような、大胆不敵さを持つ政治家がいました。「責任倫理」は、権力を行使する執権者の主体性があってはじめて意味をなすのであり、その意味で政倫審に出席した政治家たちには「責任倫理」を語るだけの気概すら感じられません。
二つめは、政倫審が中断に追い込まれるというハプニングが起きたことです。本来であれば、第三者機関か国会招致という形で裏金問題を別の委員会で審議をしながら、予算案は予算案でお互いに論戦をして通していくのが筋です。裏金問題の追及と、被災地復旧に必要な手当を含めた予算案の審議と通過を図るツートラックの議会運営が望ましいはずです。しかし、派閥の疑惑をウヤムヤにした与党に取って代わるべき野党が非力であるとすれば、政党政治そのものに国民が愛想をつかすことになるかもしれません。国民が政治そのものに愛想をつかした時、何が起きるかは戦前の歴史が教えている通りです。政党政治の機能不全で、国民の不満はより過激なものにその捌け口を求めていかないとも限らないのです。空前の株価と政治の底知れない劣化。このコントラストの中でも国がまわっているとすれば、政権交代可能な議会制民主主義は結局、日本には根付くことはないのでしょうか。
※AERA 2024年3月18日号