

草刈正雄さんが、第75回の「日本放送協会放送文化賞」を受賞した。大河ドラマ『真田丸』や連続テレビ小説『なつぞら』など多くのNHKドラマに出演したことなどが受賞理由に挙げられている。そこで芸能生活50周年に合わせて上梓した草刈さんの著書『人生に必要な知恵はすべてホンから学んだ』(朝日新書)を改めて紹介する。この本でで明かした、亡き母への複雑な想いとは? 本書より一部を抜粋・再構成してお届けする(2020年8月11日に配信した記事の再配信です。年齢、肩書等は当時)。
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母と僕と映画と
原点は母だ──。歳を取るにつれて、そう思います。
10年前に他界した母と僕のあいだには、いまだに言葉にするのが難しい距離がありました。互いに互いを遠くから気遣うような、そんな付かず離れずの感覚です。はたから見れば、仲のいい親子に見えたかもしれない。事実、そうでした。でも、お互いに本心をぶつけあってきたかといえば、必ずしもそうとはいえません。あのとき、あんなふうに言えばよかったんじゃないか。あの日だって、もっと違う接し方があったんじゃないか。いまでも練習問題は続いている。永遠の宿題です。
母一人子一人の関係でした。父はアメリカの軍人で、朝鮮戦争で亡くなりました。福岡県の東、行橋(ゆくはし)で母は僕を産み、物心がついた頃には二人で小倉に住んでいました。
「バービィ!」
チビの僕をこう呼ぶ母に、「ママ」と応えていた。小学校ではものすごくからかわれました。母に手紙を書くという授業で、「ママへ」と書いてしまったんです。当時、母親のことを「ママ」と呼ぶ子どもはいません。みんな、「お母さんへ」。でも、その日から急に変えられるものでもありません。母こそ「バービィ」は早々にやめて「マコちゃん」とか「マコ」と僕を呼んでいましたが、こちらは終生、そのまま。17歳で単身上京してから2年目に、東京に母を呼び寄せたんですが、その後も曖昧に「マァア、マァア」。僕に家庭ができたある時期は別々でしたが、後年は再び一緒に暮らしました。亡くなるまで、「マァア」は変えられませんでした。