将棋は藤井八冠と「同門」(写真:本人提供)

 父は、男4人女2人の6人きょうだいの末っ子で、家族経営の小池毛織で常務になったが、兄やその子が経営を受け継ぎ、トップにはならずに終える。でも、多数の中の単なる1人ではなく、自らの使命を黙々と果たす。そこから「鶏口となるも牛後となるなかれ」とのメッセージを、感じ取る。「やると決めたら、やり抜く」の気構えを、支える志となった。

 BICの成長も「やると決めたら、やり抜く」が、もたらした。ニーズの変化の兆しをとらえると、名古屋市の本社へ新製品の開発を要請し、コストの低いアジアで生産した割安の製品を米国で売った。このグローバル分業をやり抜いて、在米23年半でBICの売上高を25倍にする。その実績が、トップの座へと近づけた。

 実家は田畑に囲まれた小池毛織の本社と工場に、隣接していた。小・中学校で級長や生徒会の役員を務め、「鶏口となるも牛後となるなかれ」の一歩を踏み出す。愛知県江南市の私立滝高校を卒業。大学受験で1年浪人した後、75年春に早稲田大学政経学部の経済学科へ進む。部活は、邦文速記研究会。邦文速記は、日本語の会話を線や符号で迅速に書き留め、後で文章に直す手法だ。練習すると上達し、どんどん面白くなる。世話役の幹事長をやり、全日本学生速記連盟の理事長も務めた。

 成績は48科目のうち優が39、良が9と、就職先を選べる側にいた。小池毛織は親族が多くて「鶏口」になれないし、同期入社が百人単位の会社は「多数の中の単なる1人」になりやすい。少数精鋭で事業を仕切れる可能性が高い会社を目指すと、4年生の夏にブラザー工業の採用のダイレクトメールがきた。

同期は14人だけ牛後でなく鶏口に思いを懸けて入社

 面接へいくと「このまま決めたらどうか」と誘われる。実家へ帰って父母に話すと、Uターン就職で喜んだ。同期の大卒の採用数は14人。「これは牛後でなく鶏口になれる可能性が大きい」と思って、決めた。

 79年4月に入社、研修後に特機開発グループへ配属される。主力のミシンや編み機、タイプライターなどのブラザーブランド以外なら何を売ってもいい、という部署だ。電卓、レジスター、POS端末用のミニプリンターを売った。

 一方で、訪問販売やカタログ販売が中心のミシンは、大手スーパーが安売り商品で台頭し、厳しい状況になっていた。ちょうど米国でパソコンの機種が次々に登場し、デジタル時代が幕を開けていた。

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