黒柳徹子(くろやなぎてつこ)/ 1953年、テレビ女優第1号としてNHK放送劇団に入団。ラジオドラマ「ヤン坊ニン坊トン坊」のトン坊役で人気になり、58年、当時最年少で紅白歌合戦の司会を務める。71年にニューヨークに留学。72年に始まったニュースショー「13時ショー」の司会を経て、76年「徹子の部屋」スタート。81年『窓ぎわのトットちゃん』がベストセラーに。84年からユニセフ親善大使を務める。12月には初のアニメ化作品として「窓ぎわのトットちゃん」が公開。(撮影/下村一喜)
黒柳徹子(くろやなぎてつこ)/ 1953年、テレビ女優第1号としてNHK放送劇団に入団。ラジオドラマ「ヤン坊ニン坊トン坊」のトン坊役で人気になり、58年、当時最年少で紅白歌合戦の司会を務める。71年にニューヨークに留学。72年に始まったニュースショー「13時ショー」の司会を経て、76年「徹子の部屋」スタート。81年『窓ぎわのトットちゃん』がベストセラーに。84年からユニセフ親善大使を務める。12月には初のアニメ化作品として「窓ぎわのトットちゃん」が公開。(撮影/下村一喜)
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 21日放送の「くりぃむクイズ ミラクル9」(テレビ朝日・毎週水曜午後7時)はテレ朝開局65周年の2時間スペシャルで懐かしの映像が満載だ。「西部警察」や「徹子の部屋」などのテレ朝の名物番組からクイズが出題される。黒柳徹子が「徹子の部屋」を語りつくした過去の記事を振り返る。(「AERA dot.」2023年6月3日配信の記事を再編集したものです。本文中の年齢等は配信当時)

【写真】1953年ごろテレビ女優第1号として活躍されていた黒柳徹子さんはこちら

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 日本を代表するインタビュー番組「徹子の部屋」は、1976年のスタートから今年で48年目を迎えた。「100歳まで続けたい」と語る黒柳徹子さんの尽きない好奇心と健康の源とは?

 1972年の夏のことだ。ニューヨークの演劇学校に通っていた徹子さんのもとに、NET(現在のテレビ朝日)のプロデューサーから電話があった。「日本で初めてのニュースショーがスタートするのですが、その司会をやってもらえませんか?」という依頼だった。

「ニューヨークに留学して1年、まだ日本に帰るつもりはなかったんです。でも、女性がメイン司会者のニュースショーができるというお話には興味を持ちました。それまでのニュースショーやワイドショーといえば、女性はアシスタント的な存在で、男性のそばでニコニコしていればいい、という感じ。おまけに、観ている主婦の反感を買わないように、主婦か主婦の経験がある人でないとダメと言われていた時代です。服装も白いブラウスに紺のスカートがお決まりだったので、『私は主婦でもないし、主婦の経験もありません。白いブラウスに、紺のスカートのような服装もできません』とお伝えすると、『今はむしろ、あなたのような独身でプラプラしてる方の感性が必要なんです』とおっしゃる(笑)。好きな服を着てもいいということだったので、『じゃあ帰ってみようかな』という気になったんです」

 その頃、徹子さんが演劇学校で知り合った仲間は、年齢もバックグラウンドもバラバラ。肉体労働などで生活の糧を稼ぎながら、芝居のオーディションに挑戦している40代、50代も少なくなかった。誰もが夢を追いかけて集まるニューヨークで、必死で夢を追う人たちとの出会いによって、自分を必要としてくれる場所があるありがたみを再認識してもいた。

 徹子さんが担当したニュースショー「13時ショー」は、76年2月に「徹子の部屋」というインタビュー番組になった。番組内容が変わるにあたって、徹子さんはいくつかの条件を出した。

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