徳川家康のSNSアカウント(『戦国時代のタイムライン』より)
徳川家康のSNSアカウント(『戦国時代のタイムライン』より)
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もし、徳川家康と武田信玄がSNSをやっていたら……家康は「なめるな信玄!」と怒りのリプライを飛ばしていたかもしれない。NHKのSF時代劇『天下人のスマホ』等にも制作協力として携わったスエヒロさんの新刊『戦国時代のタイムライン』(監修:本郷和人東京大教授)より、一部を抜粋・編集してお届けする。

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徳川家康(以下、家康):1573年に、武田信玄さんが率いる軍勢と、私・徳川家康が遠江の三方ヶ原で戦ったのが「三方ヶ原の戦い」ですね。

武田信玄(以下、信玄):家康と織田信長が同盟を組んで、ワシに挑んできよった合戦だな。フフ。

家康:当時、信長殿は足利義昭さんとの関係が悪化しており、義昭さんの呼びかけに応じた信玄さんが、信長殿討伐を目的としてまずは徳川の領国に侵攻してきたと言われています。私としてはいい迷惑というか。

スエヒロ著『戦国時代のタイムライン』(朝日新聞出版)
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信玄:巻き込まれ系だな。戦国時代にはよくある。

家康:そんな経緯がありつつも、信玄さんの軍勢は容赦なく徳川領に攻め込んできたわけです。軍勢はまずは徳川領の要所・二俣城を攻略してきました。しかも相当な大軍を率いて攻め寄せてきたので、流石に焦りました…。

信玄:家康軍が8000人。信長が3000人の援軍を送ってきよったが、武田軍は本隊だけでも約2万5000人の大軍。その程度の軍勢ではな。ワハハ。

家康:私の居城である浜松城にも軍勢が迫ってきたのですが、ここで信玄さんは浜松城をまさかの素通りしてしまうわけです…。浜松城で籠城に備えていた私は、「どういうこと??」「うちの城は攻めるに値しないってこと?」って頭に血が上っちゃったのですよね…。

信玄:甘いのう。これはワシの作戦だったのだな。籠城戦に持ち込まれると時間がかかるので、家康を城をからおびき出すためにあえて城をスルーしたというわけだ。小童めが、フフフ…。

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