
谷繁いわく「30歳前後から、試合の途中で展開、勝敗の結果が8~9割読めるようになった。その感覚は最初2カ月に1度やってきていたのだが、次第に狭まり、35歳ごろからは年間を通して試合の流れが読めるようになった」。
それは05年ごろからのことで、すなわち「落合中日・黄金時代」と符合する。
強肩がさらに磨かれたきっかけ(?)
野村克也が一番誇っていたのが、三冠王ではなく、重労働の捕手ながら「日本最多の3017試合に出場したこと」だった。それを谷繁が「3021」まで更新した。それについて、野村は「ワシはずっと打順4番だったぞ」と、負け惜しみを言った。
谷繁は野村の著書を何冊か読んで自らの参考にしたそうだ。
「スローイングのことがあまり書かれていなかったけど、野村さんはスローイングが苦手だったのかな?」
野村は「肩が弱くて自信がなかったので、ワシが投手の『クイックモーション』を編み出して、日本で初めてやらせたのだ」と半分は卑下、半分は自慢していた。
しかし、野村は盗塁企図数3038、盗塁刺し1106で、通算盗塁阻止率.364は決して低い数字ではない。ちなみにダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)受賞は1度であり、谷繁は6度である。
谷繁の先輩捕手が「マウンドと二塁ベースの間に水をまいておけよ。横浜スタジアムは人工芝だから、二塁送球をワンバウンドさせたら、球足が速くなる。一塁走者を刺せるぞ」と言った。
むろん、刺せるわけがない。それを聞いたとき「自分は絶対(冗談でも)こんな(ことを言う)キャッチャーにはなりたくない」と思ったそうだ。