その為時は貞元二年(九七七)、花山天皇の東宮時代に副侍読を務めた。花山朝で為時は式部丞の官位を得る。「紫式部」の名はこの父の官職に由来する。けれども伯父同様、父為時もまた天皇の退位により、散位(位階のみで官職がない)の悲哀を味わわされる。
十年後、為時は受領のポストを与えられる。寒門の出身者にとって受領になれるか否かが、大きい分岐点だった。一条天皇の長徳二年(九九六)の正月の除目で、念願の受領となった(『日本紀略』)。
当初、為時の任国は淡路国だった。だが淡路は大国ではない。為時は「苦学ノ寒夜、紅涙襟ヲウルホス」(寒き夜の苦学も甲斐なく希望の地位につけず、血の涙にむせびます)との漢詩を提出、それが道長や一条帝の心を動かし、大国越前国守への就任が実現したとの逸話(『今昔物語』巻二十四―三十)もある。
いわば“芸ハ身ヲ助ク”のとおりになった。“詩徳”説話に類した内容で、興味深いものがある。文才(漢詩)のおかげで任官できたというのが事実かどうかは別にしても、父為時の漢才については、右の逸話が創られるほどに優れていたようだ。『源氏物語』にも語られている多くの中国故事には、そうした為時からの影響もあったはずだ。