ウクライナ情勢も視野

 直木賞候補作にはもう一つ、人間の生を翻弄し続けた時代を描いた小説がある。宮内悠介『ラウリ・クースクを探して』だ。舞台はソ連体制下のエストニア。プログラミングの虜となった男の子、ラウリ・クースクが激動の社会のなかで成長する、おぼつかなさと寄るべなさを描いている。ラウリ・クースクは無名の人物であり、作中の言葉を借りれば「歴史とともに生きることを許されなかった人間」だ。宮内は、何者でもない彼を主人公に据えた理由を次のように語っている。

「私たちはみんなが勇敢に戦えるわけじゃありません。なのに今の時代では、勇気を出して戦え、正義を示せと絶えず求められる。そんな社会にあって、すぐに答えを出さなくてもいい、凡庸な生き方で構わない、と伝えたくて無名であり続けた人物を描こうと考えました」

 ラウリはプログラミングを愛し続けた人物だ。宮内もまた、過去にプログラマーだった経歴を持つ異色の作家である。「プログラミングと小説はとても似ています。自分の手で企画し、設計し、一つの世界を生み出すという点では全く同じ」と話す宮内は、孤独な幼少期を過ごしたラウリを、プログラミングを通じて同じ世界を見つめる仲間たちと巡り逢わせる。だが、ソ連の体制が揺らぎ始め、政治的な動乱が起こると、彼らはばらばらに引き裂かれてしまう。

 時代に振り回された友情。大切な仲間と育んだ夢が奪われる、その切なさ。国家と国家の対立が何者でもない市民たちの絆を蹂躙するのは、もちろん小説のなかだけのことではない。

「ウクライナとパラレルな歴史を歩んだ国だからこそ、エストニアを選んだ」。そう語る宮内の眼差しは、この小説の向こうに、現在のウクライナ情勢を捉えている。無数のラウリが生きるこの世界を眺めるための解像度を、宮内の小説は高めてくれる。(ライター・長瀬海)

AERA 2024年1月29日号

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