故郷の「いちば」が原風景(写真:本人提供)

 1959年11月、瀬戸市品野で生まれる。父は青果店経営の2代目で、母も店へ出ていた。地方の街の店らしく、野菜だけでなく魚も肉もパンも、トイレットペーパーも文房具も売っていた。1階が店で奥に台所、2階が寝室だ。一人っ子で、父母は忙しいのでほったらかしにされ、夕食は店で材料を選んで、自分でつくって食べた。

 品野は農村だったが、瀬戸物を焼き続けてきた歴史がある。自宅はその窯に囲まれ、周囲に煙突が林立していた。石炭や木が燃料で、火入れをして焼く日は、煙が立ち上る。小学校の図画の授業で写生があると、煙突を描けば、様になった。

 夏休みや春休みは、朝5時半ごろに始まる青果市場へいく父についていき、父が競り落とした品をかごに入れて車へ運ぶ。そこで活気のある競りをみて、印象に残った。これが、就職で東証を選んだ一因となる。

 父に、小学校2年生の終わりからそろばん塾へ通わされた。先生は30歳くらいで「何でも1番でなければダメ」が信条。競技会へ出て優勝してくることを奨励した。塾でも競技会をやって、優勝者にはトロフィーとすごい副賞を出すが、2位はノート1冊、3位は鉛筆1本だけ。優勝はできなかったが、厳しさに、挑戦する姿勢が身に付く。

高校を中退して家業を継いだ父は後を継げとは言わず

 父は小学校時代から成績がよく、高校へ進むとき、中学校の教諭に有名校を推薦された。でも、祖父に「八百屋の息子は八百屋を継ぐに決まっている。学問なんかあると邪魔になる」と言われて断念し、地元の窯業高校へいった。さらに高校2年生で「やめて店を手伝え」と言われて中退したため、「子どもにはいい学校へ進学してほしい」と思っていたようだ。「店を継げ」と言われたことは、ない。

 78年4月に慶大経済学部へ入学。3年生が終わるまで、就職先に東証を考えたことはない。でも、先輩から「民間でも公的な仕事をしているのが面白い」と聞き、見学へいった。

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