篠山紀信さんが撮影した自身の表紙を持つ宮崎美子さん
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 写真家篠山紀信さんが4日、亡くなった。83歳だった。人物、建築、美術など被写体のジャンルは多様で、作品の数々は世界で知られる。1978年から97年の約20年間、雑誌文化が盛り上がっていた時代の週刊朝日の表紙も撮り続けた。篠山さんを偲び、週刊朝日 2021年1月15日号に掲載された宮崎美子さんへのインタビュー記事を再配信する。(年齢、肩書等は当時)

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 本誌表紙にカムバックした、元祖・女子大生モデルの宮崎美子さん。撮影の裏話、話題になった昨年のビキニ秘話、60代になって思うこととは──。
 

──今回の表紙撮影を終えての感想は?

 すごく楽しかったです。全幅の信頼を置いている篠山(紀信)さんに撮っていただけて光栄でした。何と言っても篠山さんは、私がこの世界に入るきっかけになった方で、篠山さんとの出会いがなければ人生が違うものになっていたというほど大事な方ですから。

──手に持った1980年の「週刊朝日」は、宮崎さんご本人のものです。

 はい、実家の本棚で大切に保管していました。デビューの雑誌ですからね。日光には当たってないはずだけど、何せ40年前だから、どうしたってシミができちゃう。

──当時を振り返って思い出すことは?

 応募は新聞広告がきっかけ。「篠山紀信があなたを撮ります」っていう文言が広告に載っていて、「素人の女子大生を、あの篠山さんが撮って表紙にしちゃうの?」っていう驚きでした。当時、篠山さんは男性誌「GORO」のイメージが強くて、何となく脱がせちゃうイメージの方だったけど、「週刊朝日」なら脱がせないだろうという安心感があって(笑)。

 応募写真を撮影してくれたのは、当時のボーイフレンド。でも応募用に撮ったんじゃなくて、たまたまスナップ写真を撮ってくれたのが手元にあって、それを送ったんです。大学の購買部に自分が表紙の「週刊朝日」が並んだ時は、自分なんだけど自分じゃないような不思議な感じでした。

 実は私、大学の時、写真部にいたんです。学生にはフィルム代は高かったけど、現像の作業は楽しくて好きでした。持っていた二眼レフはミノルタ。CMに登場することを考えると運命みたいですよね(笑)。そのカメラは、今も大事に持ってます。

──あれから40年。どんな40年でしたか?

 こんな仕事をするとも思ってなかったし、続けてこられるとも思ってなかったです。諦めるタイミングはいっぱいあったと思うんですけど、続けてこられたことは本当によかった。この世界に入ったばかりの時、私は親元を離れるのも初めてだし、芸能の仕事をするにあたっての訓練も全く受けてなくて。そんな中で仕事がいきなり始まって、自分を見失いそうになることもありました。少しずつ仕事がわかってくるようになると、今度は逆に迷いが生じたり。40代ぐらいでようやく居場所も少しできてきて、自分の立ち位置が見えてきました。最近は年齢とともに自分のことがわかってきて、いろんなことに折り合いをつけられるようになりました。

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