米ワシントンで勤務していたころ、ユーチューブで昔懐かしい邦画やテレビ番組を探すという休日夜のひそかな楽しみがあった。

 あるとき、ちばあきお作の野球マンガ「キャプテン」の実写版を見つけた。断片的に動画を見ただけなのだが、ストーリーは子どものころテレビアニメで見たものとまったく同じ。でも、どこか受ける印象が微妙に違う。

 帰国後、DVDで見直してみて、違いに気付いた。

 公立中学校に転校してきた主人公は、人前でうまく話せず、引っ込み思案だが、名門中学の野球部にいたというだけで野球部のキャプテンにさせられる。本当は2軍の補欠だったのに、試しに入った打席でピッチャーの暴投を偶然ホームランにしてしまい、部員に本当のことを言い出せなくなる。やがて実力が伴っていないことは部員全体に知れ渡るが、自宅近くの神社で夜の秘密特訓をして克服する。部員の信頼を勝ち取り、予選を勝ち進み、最後は自分がいた名門校との試合に挑むという汗と涙の青春ドラマである。

 80年代に放映されたテレビアニメでは主人公の母親を除けば登場人物はすべて男だが、2007年の実写版では、クラスメートの新聞部員と野球部顧問とで2人の女性が登場する。明らかに時代のなせる業だ。もうひとつの見逃せない違いは、主人公が夜の神社で父親と共に秘密特訓しているところを後輩たちが目撃する名シーンでのセリフだ。アニメでは、「やりすぎじゃないか」と心配する父親に主人公は「おれみたいに素質も才能もないのはこうやるしか方法がないんだ」と言う。実写版では「素質も才能もない」というセリフは消え、その代わりに野球センス抜群の一年生がこうつぶやく。「初めての日にとんでもないホームランを打ったの、覚えてますか? みんなまぐれだって言うけど、それだけじゃない。ちゃんと体が反応してた」

 私が感じた微妙な違いの原因はここにあった。このマンガの根っこにあったのは、素質や才能の「なさ」をひたすら努力で克服する姿のはずだった。ところが、実写版では、努力するところは同じでも、素質や才能の存在を、さりげなく印象づけるものになっている。

 スポーツや芸術の分野で一流になるためには、もはや「好き」なだけではダメで、それなりの素質や才能が必要なことは、最近は子どもでも知っている。まったく才能がないのに、努力だけでできてしまってはリアリティーに欠ける。「そんなのありえない」となれば、もはや共感も呼ばない――そんな意図を感じるのである。

 これは80年代以降、才能や素質の基となる遺伝子の働きが徐々に解明されてきたことと無関係ではないと感じる。才能や素質と相対して語られることの多かった努力ですらも遺伝子の働きで説明しようとする研究も進んでいる。

 米国に「100%の男女産み分け」をしてくれるクリニックがあった。日本にも男女産み分けのノウハウ本はあるが、およそ科学的根拠に基づかない。このクリニックの院長は、性別に限らず、親が希望する遺伝子で受精卵を選別することがいずれ可能になるだろうと語った。いや一部ではすでに始まっているらしい。

 世界中から「天才」2千人分の生体試料を集め、知能を決める遺伝子の働きを解明しようとする中国の会社のプロジェクトがある。これに被験者として参加した米国人科学者にインタビューした。知能や認知は、数千単位の遺伝子が複雑に絡み合って働いていると考えられ、その仕組みを調べるのは簡単ではない。仮に1個や2個の遺伝子を操作できても、おそらくそれほど知能に影響はないだろう。

 しかし、別に遺伝子操作などしなくても、その両親にとって、もっとも賢くなる受精卵を選ぶことができれば、平均100とする知能指数(IQ)は一代で5~15ポイント高くなるというのだ。

 遺伝子を選別、改良する先に待つ社会を想像することは容易ではない。一人ひとりが最良の選択をしても、社会全体は一人ひとりが望んだものになるとは限らない。それは本書を通して問いかけてみたかった命題の一つである。

 米国の社会では自由主義や市場原理主義に加え、暮らしに関わる重要な決定は、自己決定に委ねるべきだという価値観がある。米国の有償精子バンクでは、容姿や学歴はもちろん、知能指数や病歴からドナーを選ぶことが可能になっている。利用者はごく一部でメジャーにはなり得ない。だが、極めて個人的な選択であって、他人にとやかく言われる筋合いはないとの考え方が根底にある。

 こうした価値観は日本にも着実に浸透しつつあるのではないかとわたしは感じている。そのことが本書を書くもう一つの動機になったことを付け加えておきたい。