摂関政治を語る「一変」から「三変」までの流れ、さらに「五変」の「院政」段階の評価の低さもこれにかかわる。そうしたなかにあって、「四変」の後三条天皇、そして「八変」の後醍醐天皇の治世は短期間ではあれ、「親政」が実現された画期として位置づけられている。それは、天皇権力の再生として特筆されるべき、歴史的出来事と解釈されたからだった。白石の場合、「時勢」への着目により、王威の衰微は止め難いとの認識がある。その点では「九変」の南北朝の分立という事態は、これが決定的状況となったとの認識だった。以後、天皇の力はその意義を喪失、「天下の大勢」が決したとの理解に立ち至る。
以上が、白石が捉えた天皇権力の変化の流れだ。一方で、白石は武家権力の推移にも着目する。「九変」観が天皇権力の変化を軸としたのに対し、この「五変」観は武家の権力の趨勢を主軸となす。
武家権力と「五変」史観
「五変」のおおよそは、源頼朝の鎌倉開府を「一変」に位置づけ、源家滅亡後の北条氏による執権政治を「二変」とする。そして足利氏による室町幕府の成立を「三変」、さらに戦国時代の統合を進めた織田信長・豊臣秀吉の治世を「四変」とする。最終的には、当世の「徳川」の体制を「五変」と解する。そこでは鎌倉―室町―江戸と続く武家政権の大局が語られており、われわれが通念として持っている認識に、近い考え方が提示されている。というよりも、『読史余論』の「九変五変」観での提案によって通説ともいうべき通念の固定化がなされた。天皇と武家の二重奏が、日本国の権力的特色を演出したとの解釈である。
ちなみに武家の推移を語る「五変」観のうち、「一変」から「三変」の間に位置する「二変」の北条氏による執権政治、「三変」から「五変」の間に位置する「四変」の織豊政権は、鎌倉・室町・江戸と継続する源氏将軍の「幕府」体制の間に存在した“夾雑物”として、その権力を捉える見方も可能となろう。白石にとっての当世つまり「五変」の徳川政権は、源平交替史観(注2)のあらわれとすれば、「三変」の足利に代わるべき立場として、新田一門の得川(徳川)の覇権掌握で天下の趨勢が確定するとの解釈となる。
白石の歴史観の底流には、朱子学的な合理の思考があった。併せてその『読史余論』自体、将軍家宣の「侍講」という立場から徳川政権登場の流れが説かれている。いわば現実の徳川体制の必然観が前提となっている。天皇(王家)の衰退と武家の台頭の合理的解釈がテーマだった。
そこには徳川体制の最盛期での歴史観が投影されている。武家を主体とした「武朝」主義の考え方である。けれども近世後期には『大日本史』(注3)などの影響もあり、尊王思想の高まりで揺らぎ始める。とはいえ、「九変・五変」観は、武家と天皇相互の権力を考える雛型となったことは否めない。