天皇の流れの冒頭、藤原良房の摂政就任による「一変」では、幼帝・清和天皇の登場により天皇システムの転換がもたらされたとの認識が示されている。そして宇多天皇時代の藤原基経による関白就任にともなう外戚専権を「二変」と解し、さらに冷泉天皇(関白・藤原実頼)以降の八代におよぶ段階を、摂関家(藤原氏)による外戚専権の定着として「三変」とみなし、これを摂関体制の最盛期と位置づけている。

 その後、後三条天皇(在位:一〇六八~一〇七三)の登場にともなう短期間の親政回復の「四変」をへて、白河院による上皇政治(院政)の登場を「五変」。やがて武家の台頭で十二世紀に鎌倉殿が天下の権を掌握、天皇と対峙する権力の誕生を「六変」とする。さらに北条義時による執権体制を「七変」、天皇権力が一時的に再生する、後醍醐天皇による建武の新政を「八変」とする。そして南北朝の分立――光明天皇(北朝・持明院統)、後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)――にともなう天皇権力の衰亡を「九変」とするとの枠組みだ。九世紀半ばから十四世紀半ばにいたる「一変」から「九変」の歴史に貫流するのは、天皇とその体制を構成する朝廷内部に権力上の矛盾が生じた、との理解である。

 そこには「一変」以前の「上古」(『読史余論』は光孝天皇〈在位:八八四~八八七〉以前を「一向上古ナリ」と記している)の天皇が、文武を兼ねる理想として解されている。それは、多分に上古聖代観を前提としたもので、具体的には、神武即位から奈良・平安期にいたる段階を、天皇自らが文武を兼ねた理想の時代とする。その象徴的事例は、軍事を体現する天皇による征討観だった。いわば軍務と政務の一体化の段階が理想とされた。大過去を理想とするその考え方にあっては、以後の天皇の権力は、外戚の勢力拡大など朝権内部の変化により、衰亡を余儀なくされるとの理解だ。

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武家権力と「五変」史観