17歳の長女と11歳の長男はどちらもパパっ子。休日は家族でよくラーメンを食べにいく。「父親の理想像はロビン・ウィリアムズの『ミセス・ダウト』。パパに愛されていると思ってくれるだけで十分です」(撮影/家老芳美)

「本当はまず妹にトマトを食べさせてあげたいはず。でも追い詰められた人間は、先に自分が食べてしまうんです。僕にはそれが痛いほど分かった」

 それから何回も「火垂るの墓」を観た。観るときは決まって妹の少し後ろに座った。肩を震わせて泣く姿を見られたくなかったからだ。節子の手を引く清太を見て「これは僕の物語だ」と思った。

「大人を信じていませんでした。世の中はバブル景気で皆幸せそうなのに、母は毎晩吐くまで酒を飲まされ働いていた。それなのに生活は苦しいまま。信じられないですよ。でも、『火垂るの墓』に描かれている人々の感情や生活は、全部本当だと思えた。自分のような子どもを見てくれる大人がいるんだということに、心が震えたんです」

 母を助けること。自分と同じような子どもが生きる世界を少しでも良くすること。二つの目標ができた西村は、それを実現する方法を模索し始める。中学生の頃は医者になろうと考え、猛勉強の末に医科大学の付属高校に合格。そこから当時目覚ましい進歩を遂げていたゲーム業界に可能性を感じ、一転してゲームクリエイターを目指す。ソフトウェアの開発を学ぶために、横浜国立大学工学部の電子情報系学科に進学した。

「でも入ってみて、『やっぱり映画をやりたい』と思ってしまった。ゲームはインタラクティブだけど、映画は一方通行。問いの回答をその場で求めず、答えも示さないからこそ、心に深く残る」

ハリウッドに留学後 スタジオジブリに入る

 どうせ映画を学ぶなら最高峰のハリウッドに行こう。西村は半年足らずで大学を辞めると、2年間アルバイトに明け暮れ500万円ほど資金を貯めた。そして21歳のときにロサンゼルス・シティー・カレッジに留学。映画制作の手法を2年間学んだ後、映画ビジネスについてさらに理解を深めるため、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)エクステンションで約1年半学んだ。

「そこで知ったのが、北米型のインディペンデント・プロデューサーの仕事でした。日本ではプロデューサーというと、資金調達や宣伝が仕事という印象が強い。でも独立系プロデューサーは、自分で企画を立ち上げ、監督を選び、シナリオにもコミットメントする。これは面白いと思いました」

次のページ