10月17日、東京会館で380人を超す招待客を迎え開かれた真打昇進披露パーティー。講談界以外からも多くの芸人が集まった。落語家・林家たい平の爆笑の祝辞(撮影/鈴木愛子)

 父が師匠になった。寡黙な師匠は何も指示してこない。見習いや前座仕事のやり方も自分で気づき学ぶしかなかった。楽屋入りして畳に手をついて挨拶すれば、スカート丈が短い、畳のへりに指がついている、師匠からこんなことも教えてもらってないのかと先輩から小言が飛ぶ。楽屋でごみ箱が投げつけられたときは、思わず涙を流した。その日の帰り、同行の師匠のかばんを持って帰宅すると玄関に入った途端、師匠の怒声が響いた。同じ楽屋にいて貞鏡の涙を父は見逃さなかったのだ。「ふざけるな! 女をだすんじゃねえ」。父からそして師匠から怒鳴られた最初で最後の叱声(しっせい)だった。

「前座修行の日々は生きていくのがつらくて、今日こそはやめようと毎日思ってました。でもやめたら父の顔に泥を塗ることになる、それに父の講談がすごく好きだという思いで踏みとどまれた」

 寡黙な師匠からは「修羅場」を徹底的に叩き込まれた。修羅場とは、軍記ものの勇壮な場面を声高らかにリズミカルに独特の調子で語る講談の基礎となる語りだ。前座の必修とはいえ、普通なら修羅場ものからそろそろ別の演目も習い始めるころ、「まだ早い」と、「本能寺の変」後の明智光秀と羽柴秀吉を描いた「山崎軍記」をひたすら1年間、続けさせられた。これがどれほど後の貞鏡の底力を形成することになるかは、この時は貞鏡自身もわからなかった。

 八代目貞山は、家庭の事情で寂しい幼少期を過ごしたせいなのか、じつに口数が少なかった。

「師匠の死後にいろいろな方から初めていろんなことを聞かされて知りました。きっとつらかった過去を封じたのだと思います」

 と貞鏡が語るように、まるで古武士のような佇まいの父だった。貞山の父の七代目が59歳で亡くなり、四代目神田伯治(はくじ)(後の六代目神田伯龍)の養子となった父自身も、思いもかけずに大学卒業後に入門、講談の道へ進んできた。

師匠との親子会では 握手求める客の長い列

「父親の八代目の高座はそれは凛とした古格のある芸でした。常々講釈は女性がやるもんじゃない、と言っていたのに娘さんが入門してきたときはほんとに驚いたもんです」

 と語るのは、3歳ごろの貞鏡の初恋の人“飴(あめ)のおじちゃん”と呼ばれた講談協会会長、宝井琴調(きんちょう・68)である。麻雀(マージャン)が好きな貞山宅に行くたびに、いつもカラフルな飴をもって来た。

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