いよいよ最終回が迫ってきた大河ドラマ「どうする家康」。1年におよぶ放映のクライマックスを飾るのは大坂夏の陣・冬の陣。豊臣恩顧と呼ばれる大名たちが誰一人として味方に付かないなか、あえて大坂城に参じた武将たちがいた。そこにはそれぞれの思惑があった――。
徳川家臣団「忠臣」ランキング! 秀吉からの恩恵を“拒絶”してまで貫いた忠節
後藤又兵衛基次は、永禄三年(1560)四月、播磨国三木の別所氏に仕える後藤新左衛門基国の次男として、姫路で生まれた。基国は、羽柴(豊臣)秀吉による三木城攻めの際、羽柴勢と戦い、討ち死にしたと伝わる。
また基国は、黒田職隆(黒田官兵衛の父)に仕えており、その子・又兵衛も黒田家に仕えるようになった(母方の伯父・藤岡九兵衛が黒田家を裏切ったため、又兵衛も官兵衛から警戒され、一時、秀吉の家臣・仙石秀久に預けられることもあった。天正十三年、又兵衛は再び黒田家に呼び戻されたという)。
黒田官兵衛・長政父子に仕えることになると、秀吉の九州征伐、朝鮮出兵、秀吉死後の関ヶ原の戦いにも従軍し、武功を立てる。そして黒田長政の筑前移封に伴い、大隈城主(福岡県嘉麻市)となる。
朝鮮出兵の際、又兵衛は「亀の甲」という車を作った(『常山紀談』)。「亀の甲」は厚板の箱で、内には強い切梁を設けていたと言われる(棒棹が取り付けられていた)。よって、石を落としても砕けないほど、頑丈であったとされる。この箱の中に又兵衛は入り、敵城の側まで近寄り、ついには石垣を崩したという。この逸話が本当だとすると、又兵衛はなかなかのアイデアマンだったのだろう。
また同書には、朝鮮において、又兵衛が「虎退治」をしたことが載っている。虎が厩に侵入したのを、菅政利(黒田家家臣)が防ごうとするが、腰に傷を受けてしまう。虎が政利をさらに襲おうという時に、駆けつけてきたのが、又兵衛であった。又兵衛は、虎の「肩先から乳の下にかけて」斬りつけたのだ。政利は勢いを得て、虎の眉間に斬りつけたことから、虎はついに倒れる。主君・長政は、二人を褒めるかと思えばさにあらず。「お前らは、先陣の侍大将として下知する身であるのに、獣と勇を争うとは。大人げない」と非難した。後の長政と又兵衛の不和を予見するかのような逸話である。
その後、黒田家の家臣として、順調に出世していくが、思わぬ蹉跌が又兵衛を襲う。黒田家を出奔する事態となったのである。その理由については様々な説があるが、その代表例は、長政との不仲説である。勇将の又兵衛に、長政が嫉妬していたのではとの逸話もあるほどだ。ある時、長政は家臣に「自分に代わり、軍勢を指揮し、大功を立てる者はあろうか」と尋ねる。すると家臣は「後藤又兵衛殿に比肩する侍大将は、当藩には見当たりませぬ」と答えた。長政はその言を聞き、機嫌を損ねたという。