1959年、川井さんは国鉄職員だった両親のもとに生まれた。暮らしていた国鉄アパートは現在の百済貨物ターミナル駅(大阪市)のとなりにあり、毎日、すぐ目の前で蒸気機関車(SL)が貨車の入替作業をしていた。
「鉄道を撮り始めたのは小学校5年生のときです。親父のカメラを勝手に持ち出して機関庫を撮りに行った。親父にはぶん殴られましたけど、それからずっと鉄道写真を撮るようになりました」
川井少年はSLの撮影にのめり込んだ。そのころ消えゆくSLを追いかけるSLブームが巻き起こっていた。一方、「SLの写真を見せて喜ぶのはSL好きの仲間だけ」であることを感じていた。
鉄道で旅をしながら人を撮る楽しみを知ったのは、中学卒業の際、北海道を訪れたときだった。
「親から、高校に合格したら北海道へ撮影に行っていいよ、と言われ、それで勉強を始めたんです(笑)。北海道への旅は初めての大旅行でした。見知らぬ風景にレンズを向けるのも新鮮でしたけれど、同じ車両に揺られながら旅する人たちを撮るのが楽しくなって、それが自分の撮影スタイルになっていったんです」
「ポートレール」とは
24歳のとき、初めて写真展を開くと、政府の広報業務を受託していた時事画報社の編集部員が川井さんの作品に目を止め、仕事を依頼するようになった。
当時、時事画報社は米国のグラフ誌「LIFE」を手本に、国の施策を紹介する「フォト」や、日本を海外に紹介する「Pacific Friend(パシフィックフレンド)」などを発行していた。その撮影を手がけるうちに川井さんは「鉄道をどう撮影して見せるのか」という視点を鍛えられたという。
「例えば、『第三セクターによる鉄道の再生』といったテーマを与えられて取材するのですが、そこで求められるのは『鉄道写真』ではないんですよ」
鉄道の車両や設備はもちろんのこと、それをメンテナンスする作業員や駅員、行政担当者、乗客、さらには地元に暮らす人々の生活を追った。
「取材後は、撮影した写真をどう見せるか、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論をしました。真正面からぶつかり合う、という感じだったですね」
このとき身につけたドキュメントタッチの撮影手法は、のちに『とっておきの汽車旅』にも生かされてゆく。
だが同時に、一般の人に声をかけて撮影することを躊躇する空気が業界の中に広まりつつあることに危機感を覚えた。
「そのとき、ふと頭に浮かんだのが『ポートレール』という言葉なんです」と、川井さんは振り返る。
それは、人を撮る「ポートレート」と、鉄道を象徴する「レール」を結びつけた言葉だった。