延江浩(のぶえ・ひろし)/TFM「村上RADIO」ゼネラルプロデューサー(photo by K.KURIGAMI)
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板画家の棟方志功(1970年撮影)

 久し振りに親戚のおじさんの家を訪ねたような気分になった。秋晴れの北の丸公園、東京国立近代美術館での「棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ」である。

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 小学生時代、両親とも教師だった僕はいつも一人だった。放課後は級友を誘ってダイニングテーブルで卓球をしたり、応接間で相撲を取ったりと楽しく暴れまわり、壁に傷がつき、襖には穴が。帰宅した母はアラアラと怒りもせず、捨てずにとっておいた棟方志功カレンダーを一枚ずつ壁や襖に貼った。

 暴れれば暴れるほど板画が増え、志功さんの描いた仏やキリスト教の聖人たち、鬼や色とりどりの花々に囲まれた。中には志功さんの自画像もあって、まん丸眼鏡の微笑みも日常的に眺めることになった。

「板画ハ、神ヤ佛ヲ遊バセルホド大融通ノモノデス。驚イテモ、オドロキ限(キ)レナイ、歓コンデモ、ヨロコビ限(キ)レナイ、哭(カナ)シンデモ、カナシミ限(キ)レナイ。ソレガ板画デス」と志功さんは語っている(「別冊太陽 棟方志功」より)。

「そういえば、私の家には志功さんのカルタがあったわ」と一緒に行ったラジオディレクターが呟いた。「だからお正月は志功さんと一緒だった」

 そう、僕ら昭和の子どもは棟方作品と遊んでいたのだ。

 板を彫るにも絵筆を取るにも、四つん這いになって、何やらうぅうぅ唸りながら作品に向かうのをテレビでよく観た。そんな志功さんの自伝に谷崎潤一郎が序文を寄せている(谷崎の『鍵』や『瘋癲老人日記』では志功さんが挿絵を手がけていた)が、「眼病の棟方志功眼を剥(む)きて猛然と彫(え)るよ森羅万象」とは志功さんへ捧げた谷崎の歌である。

 志功さんの文章も素敵だ。彼は強度の近眼だった。知り合いからお古の眼鏡をもらった時、

「その眼鏡をかけたら、あんまりものが見え過ぎるので、

『先生、見えすぎますッ』といったら、

『それなら、眼鏡に目を合わせろ』

というのでした。パアッと明るくなって、新しい世界がひらけました」(『板極道』)

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「我は、ゴッホになる」