ぺ・ヨンジュンの衝撃的な登場から20年。母から娘へ、またその子どもへ……ドラマからK-POPへ、世代をまたいでファンの層を紡いできた。ファンの人生にも少なからぬ影響を与えた“韓流”の歴史を振り返る。AERA2023年10月30日号より。
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日韓の間に横たわる山が動いた──。
その瞬間を取材で目撃したのは、2004年11月のことだった。
「サランヘヨ~!」
成田空港につめかけた3500人以上の女性たちが、到着ロビーで声を合わせる。視線の先には、ペ・ヨンジュン。大きく手を振って、遠くのファンにも笑顔を送る。ファンをおもんぱかるように、たっぷりと時間をかけて。ワイドショーは生中継で来日を伝え、ホテルへの移動をヘリコプターで追いかけた。
それは、当時爆発的な勢いを見せていた韓流ブームの象徴ともいえる、歴史的な出来事だった。
「車より映画を売ろう」
「韓流ブーム」とは、そもそも何だったのか。2000年代前半のドラマを中心とした「第1次」、K-POPが盛り上がった10年代序盤の「第2次」、コスメやファッションが注目された「第3次」、そしてコロナ禍に様々な分野にすそ野が広がった「第4次」と大きなうねりがある。その間には谷といえる時期も。
さかのぼって、1994年。AERAの調査によると「韓国から何を連想しますか」という問いに対する日本人の答え上位五つは「キムチ、ハングル、板門店、チマチョゴリ、朝鮮人参」(「AERA」94年1月24日号)だった。その頃、日本で当時韓国映画として最高の興行成績を打ち立てた映画「風の丘を越えて 西便制」が公開される。だが、伝統芸能パンソリの旅芸人一家を主人公に恨の情念を描く作品は、大衆的な人気を得るまでには至らなかった。
韓国のエンターテインメント業界に変化の兆しが見えたのは、98年だ。アジア通貨危機で韓国社会が揺らぐ渦中に就任した金大中大統領が「文化大統領」を宣言。「1台の車を売るより1本の映画を売ろう」というスローガンを打ち出し、映画振興委員会を通じて映画産業への積極的な投資と支援に乗り出す。エンタメ産業に商機を見いだした民間の投資も旺盛になるなか、「シュリ」が日本で韓国映画として初めて週末興行成績1位になり、18億円以上の興行収入をたたき出した。2002年、サッカー・ワールドカップの日韓共催をきっかけに制作されたドラマ「フレンズ」では、深田恭子と恋物語を演じたウォンビンが「キムタクに似ている」と注目を集めた。