巨人の新監督に阿部慎之助ヘッド兼バッテリーコーチが就任した。“ポスト原”の候補には、高橋由伸氏の再登板や落合博満氏らの名前も取り沙汰されていたが、既定路線で落ち着いた形だ。過去にも実現には至らなかったが、監督就任の噂が出た大物がいた。
よく知られているのが、1981年秋に大洋が浪人時代の長嶋茂雄氏にラブコールを送った話だ。
同年9月24日、親会社・大洋漁業本社の中部藤次郎社長が長嶋氏の獲得を宣言したのが始まりだった。同年最下位に沈んだ大洋は、土井淳監督の後任に長嶋氏を迎えようとしたのだ。しかし、長嶋氏は「来年はどのマスコミにも属さず、フリーの立場で日本の野球をキャンプから見たい」と二浪宣言し、翌シーズンの大洋入りはなくなった。
だが、中部新次郎オーナーは「長嶋さんへのラブコールは続けます。そのためにもチームをもっと明るく、強くしなくては」と将来の“長嶋大洋”実現に意欲満々。11月6日に就任した関根潤三新監督も「昭和50年(1975)に(巨人の)ヘッドコーチを務めていた僕が至らなかったばかりに、(最下位で)長嶋政権の顔に泥を塗ってしまった。大洋でその借りを返したい」とチームを優勝争いできるまで強くしてから、長嶋氏にバトンタッチする意向を示した。
2年後の83年、大洋は前年の5位から3位と4年ぶりのAクラス入りをはたし、機は熟したかに見えたが、長嶋氏は大洋側の誠意に感謝しつつも、最終的に「復帰はまだ早い」と断ってきた。関根監督は「もう1年待ってみましょう」と球団側に持ちかけたが、「3年間誠意を尽くしたけど、ご縁がなかったと思って手を引きましょう」という結論になった(「野球ができてありがとう 関根潤三放談」 小学館」。
それから5年後の88年秋、今度はヤクルトが「積極的にアプローチしたい。来ていただけるなら、キャンプ中でも構わない」(ヤクルト本社・桑原潤社長)と長嶋氏の招聘に動く。前出の関根監督(大洋退団後、ヤクルト監督に就任)の進言を受けてのアプローチといわれ、当時ヤクルトには長男・一茂も選手として在籍していたことから、“長嶋ヤクルト”を待望する声も多かった。翌89年3月に発売されたファミコンソフト「ペナントリーグホームランナイター」では、スワローズをもじったスワンズの長嶋監督が“フライング登場”している。
だが、10月11日、長嶋氏は「まだユニホームを着る気はない」と断りを入れ、大洋同様、実現することなく終わっている。