私は著者である藤田孝典氏とは、2007年から震災復興支援やブラック企業対策などで連携を深めてきた。
藤田氏は社会福祉の現場に向き合いながら、決して現状に埋没することなく、社会の在り方を提案し続けてきた。現場で黙々と支援するわけでもないが、「政策」を上から振りかざすわけでもない。徹底的に現実と格闘するその姿は、実践家として傑出していると思う。
本書は藤田氏の問題視角の鮮やかさが、いかんなく発揮された一冊だ。第一に、著者は貧困問題を個人的な問題に解消せず、日本の福祉制度全体の視座から解き明かす。本書のテーマである「下流老人」も、決して特殊な存在ではないということだ。
本書の前半では「下流老人」が定義されている。収入が著しく少なく、蓄えがなく、頼れる者がいない、そんな老人が「下流老人」であり、近年急激に増えているという。年金などの社会保障制度があまりにも脆弱であることが、そのもっとも基本的な要因だ。今や、リタイア後の「ゆとりの生活」を送れる老人は多数派ではない。多数の老人が「下流」と呼ばれるほどの貧困生活を送る。この事実描写は大変ショッキングなものである。
だが、圧巻はその分析の視角である。これは本書の第二の特長だが、著者が言うには「下流老人」の問題はさまざまな現象を誘発する。まず「親世代と子ども世代が共倒れする」。親世代が貧困化すれば、これを助けようと子供世帯が負担を強いられる。国の福祉の穴を、家族が埋めなければならないわけだ。だが、子供世帯は所得が減り続けている。ゆとりがない子供世帯は自分の生活を犠牲にしてまで、親に尽くさなければならなくなる。これでは親子が引き裂かれ、苦しまざるを得ない。あまりにも惨い構図である。
また、「下流老人」は社会の「価値観の崩壊」をも招く。「高齢者が尊敬されない」「高齢者なんか邪魔だ」。つまるところ長生きすることが無価値で、長く生きている意味のない社会への変貌である。さらには、負担増のために、若者世代の消費の低迷を引き起こし、少子化も加速させる。これらの事実に鑑みれば、「下流老人」の存在はもはやだれにとっても対岸の火事ではない。日本社会をむしばみ、社会を破壊しかねない重大問題であることが理解できる。
このように、著者が問うているのは「社会」そのものなのであり、この問いかけは、特定の人の悲惨さを非難するものではないのだ。あらゆる人を利害当事者にする。
一方で、「下流老人」の姿は、私たち自身の「将来」への不安を掻き立てる。「下流老人」に至るパターンは、誰にも、いつでもふりかかる、あまりにもありふれたものだからだ。著者によれば、それは特に次の5つのパターンである。
〈パターン1 病気や事故による高額な医療費の支払い〉
〈パターン2 高齢者介護施設に入居できない〉
〈パターン3 子どもがワーキングプア(年収200万円以下)や引きこもりで親に寄りかかる〉
〈パターン4 増加する熟年離婚〉
〈パターン5 認知症でも周りに頼れる家族がいない〉
これらのパターンが、即座に「下流老人」を生み出すことは、繰り返しになるが日本の福祉の脆弱さゆえである。
ここでも著者は、福祉の直接的な不足にとどまらない論点をも提示している。それが本書の第三の特長である。
パターン3に注目してほしい。若者の労働問題に無関心でいると、親世代は「下流老人」に叩き落されてしまうことが指摘されている。「フリーター」問題や、「ブラック企業」問題を「若者問題」と思ってはいけないのである。この問題を解決しなければ、自分の老後の安泰もない。とかく「世代間対立」ばかりがあおられる中で、若者問題と老人問題をつなぐ、優れた視点である。また、パターン4の熟年離婚も、社会の理解や対策が進まなければ、やはり自分自身の老後が怪しくなる。離婚しても暮らしていけるような福祉の施策、家族が円満になるよう長時間労働を見直すことも必要だろう。
このように、いわば、「未来の潜在的下流老人」の防止に向けた、幅広い観点からの問題提起の書でもあるのだ。
私は、日本の人口の多数を占める中高年にこそ、本書を読んでほしいと思う。最近では「若者が選挙に行けば世の中が変わる」という主張が多々見られるが、人数の上でも、社会的な地位からも、中高年は力を持っているからだ。
しかも、「下流老人」は多くの中高年を当事者にすると同時に、若者の雇用問題ともつながっている。中高年が自分自身の「未来」を熟慮することが、若者対策の発展にもつながっているのである。本書には、世代間対立を超える潜在力があることを、皆様に強く訴えたい。