
海の男たちは、あれこれ言うだけで自ら動こうとしない「評論家」は、尊敬しない。口先よりも実行。実践派の血も、受け継いでいた。新浪剛史さんは自らのビジネスパーソンとしての『源流』を、この「海の男の血」にある、と自認する。
中学で始めたバスケ 怠惰な生活ぶりから早寝早起きで勉強へ
1959年1月、横浜市三ツ沢に生まれ、父母と弟の4人家族。家系を遡ると、三河湾の海賊に至る。父は特攻隊の生き残りで、母の叔父がやっていた港湾荷役会社にいた。米海軍の仕事もあり、いけば米国人がいたので、小さいころから外国人と臆せずに接することができた。
中学校に入ったころは生活が怠惰で、学校にも時間ぎりぎりにいっていた。すると、担任の教諭が母親に面談で「何か、カッチリしたものをやらせたほうがいい。背も高いし、バスケットはどうか」と言って、2年生の夏に始めた。そこで、練習がきつく、早く寝て早く起きて勉強する、という習慣ができた。
県立横浜翠嵐高校でもバスケを続け、センターを務めた。シュートのリバウンドを激しく獲り合うなど、けっこう厳しい。「格好よくシュートができる役をやりたい」とわがままを言う「お山の大将」ぶりが続く。
自宅が内陸部にあったので、港へいくことはそう多くなかったが、父の会社へいくと海の匂いがした。花火大会を、父と会社の艀(はしけ)でみた。いまもたまに横浜へいくと、当時を思い出す。やはり自分は「浜っ子」だな、と思う。
将来は外交官になって、世界を舞台に仕事をしたい。そう思って、東大法学部を目指したが失敗。慶大経済学部へ入った後も「来年もう一度、受け直そうか」と思ったが、東京六大学野球の早慶戦を観て興奮。「これはいい大学へきた」と、迷いを振り切った。
就職で、世界の穀物メジャー相手の仕事を希望した。だが、砂糖の担当になる。ずっと赤字部門で、正直、がっかりした。でも、どこへいても、『源流』の実践派の血は流れていた。「ここで生き抜くには、何をすればいいか」と考えていたら、砂糖にも穀物のように国際メジャーがいるのを知る。彼らは砂糖の需給リポートは書けても、ドル相場がどうなっていくかのリポートは書いていない。そこに、目を付けた。毎週のように為替リポートをつくって、取引先へ送る。外為は詳しくないので、為替部にいた同期生に話を聞き、懸命に英語で書いた。すると、送り先から「新浪さんに」と指名がかかるようになる。すごく利益が出た。