そうみえないだろうが実は涙もろい。送別の辞を口にするとジーンとしてしまう。物事を断るのも苦手で断り上手になれない。これも血筋ゆえか(撮影/狩野喜彦)
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 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2023年9月25日号より。

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 1981年春に慶大経済学部を卒業し、4月に三菱商事へ入社して配属された食糧部門の砂糖部にいたときだ。東京湾の千葉港へ、輸入されて船から荷揚げされる砂糖の確認にいくと、小雨が降っていた。このとき、自身に流れる「海の男の血」を、思い起こす体験をする。

 荷役の作業には、荷役の掟がある。少しでも雨が降ってくれば、一斉に作業をやめた。滑りやすくなり、危険だからだ。でも、船の係留期間が延びると、経費が膨らむ。だから、いくたびに「早く卸して下さいね」と頼んでいた。雨模様の日には、酒の一升瓶を差し入れに持っていく。作業後にねぎらいの酒を交わすためだが、正直に言えば「ちょっとくらいの雨なら、やってね」との思いがあった。

千葉港で砂糖を輸入荷役の頭が言った「新浪さんの息子か」

 この日も、瓶をぶら下げていく。すると、雨が落ちていても荷役の頭が「あんた、新浪さんの息子だろう。いいよ、やってやる」と言った。「新浪さん」とは、対岸の横浜港で荷役会社の会長だった父のことだ。港は違っても知っていて、それなりに敬ってくれる。海の男たちのつながりは、すごい。その後も、同じことが続く。砂糖部に約8年、自らに流れる「海の男の血」に感謝する日々だった。

 94年、今度は食料開発部で、「海の男の血」が湧き出す。3年前に米ハーバード大の経営大学院で経営学修士号(MBA)を取得して帰国し、国内スーパー向け冷蔵食品を担当した。毎日、決まったような仕事の繰り返しに物足りなさがあり、「何か事業を実践してみたい」との思いが募る。あるとき、病院に入院した。すると、当時の病院食は冷たくさめて、美味しくない。ふと「こういうところに、ビジネスチャンスがある。給食だな」と思う。

 部下に調べさせると、給食事業は設備費がそんなに要らなくて、軽く始められる。国内の年商10億円の給食会社を買収し、フランスの給食大手と合弁会社を設立して企業や病院などへ給食を出す案をまとめ、上司に出した。まだ35歳と若手の部類。投資額が多いと先輩たちがやってしまうが、少額なら自分でやれる。そんな計算もあった。

 ところが、上司は「三菱商事が弁当工場をやるのか」と冷たい。でも、諦めない。ハーバードで学んだのも「実践にこそ価値がある」だった。提案書を手直しして再び説得にいき、了解をもらい、合弁会社の副社長に出向する。三菱商事本社の食堂も運営し、入り口に立ち、みんなに挨拶をした。真意は、自分の社員たちに本気度をみせるためだ。皿洗いもして、5年で年商を100億円に伸ばす。

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