戦国時代は常に臨戦態勢だったとはいえ、大軍が戦場へと移動して、命をかけて戦うには、相応の準備が必要だった。出陣前の作戦会議にはじまり、兵の招集、人数の確認、出陣の儀式、兵站輸送、そして着陣まで。週刊朝日ムック『歴史道Vol.29 戦国時代の暮らしと作法』では、そんな「出陣の手順と作法」を特集。今回は、出陣前の作戦会議「軍評定」について解説する。
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軍(戦)評定とは、合戦の前に行う作戦会議のことである。軍評定では重臣や軍配師が中心になって、作戦や出陣の日取りなどを決定したと考えられる。当主は重臣層らと作戦面で合意形成をしたうえで出陣し、ときに和睦に転じることもあった。
軍評定にまつわるエピソードも伝わっている。
永禄三年(1560)五月の桶狭間の戦い(織田信長と今川義元の戦い)に際して、織田信長は出陣前に軍評定を開催しなかったという。それどころか、突如として「敦盛」(幸若舞と呼ばれる曲舞)を舞うと、出陣を命じた。この話は『信長公記』に書かれたものだ(同書の天理本には軍評定を催したとある)。非常に有名な逸話であるが、当主はときに軍評定を催さず、独断で作戦を遂行することもあった。
天正十八年(1590)の小田原合戦(豊臣秀吉と北条氏政・氏直親子との戦い)では、北条方は迫りくる豊臣軍とどう対峙するのか、連日のように軍評定を開き、対策を検討。和睦、籠城、出撃などの案が議論されたが、結論には至らなかったという。それゆえ〝小田原評定〟といえば、結論の出ない会議の代名詞となった。結果、北条氏は豊臣軍の猛攻に屈し、降参に追い込まれたのである。
慶長五年(1600)九月の関ヶ原の戦いの前哨戦において、島津義弘は石田三成に対して、赤坂(岐阜県大垣市)在陣中の東軍への夜討ちを提案した。奇襲戦で、一気に東軍を打ち破ろうと考えたのである。しかし、三成は西軍の軍勢が東軍より多いので、「日中に平野部で決戦を行う」と決め、義弘の作戦を拒否した。決定を聞いた義弘は、三成に強い不信感を抱き、戦いに参加しなかったといわれている。その結果、西軍は関ヶ原で東軍に敗北を喫した。
実際のところ、軍評定の詳しい経緯を記す史料は乏しい。現実には、上に挙げた逸話のような劇的なものではないにしても、当主と家臣は必勝を期して、侃々諤々の議論を行ったに違いない。
※週刊朝日ムック『歴史道Vol.29戦国時代の暮らしと作法』から