05年に田中将大(現楽天)とのダブルエースで駒大苫小牧の夏連覇を実現したのが、最速149キロ右腕・松橋拓也だ。
甲子園デビューは鮮烈だった。04年夏の準決勝の東海大甲府戦、岩田聖司、鈴木康仁のエース2枚看板の疲労を心配した香田誉士史監督が球威を買って初先発初登板で起用すると、いきなり147キロを計測して2イニングをピシャリと抑え、「まだこんな投手を温存していたのか」と相手ベンチを驚かせた。
だが、直球に頼り過ぎて痛打される欠点も露呈し、3回途中3失点で降板。翌春のセンバツ2回戦の神戸国際大付戦で甲子園2度目の先発も、立ち上がりから制球に苦しみ、3回でマウンドを降りた。
そして、雪辱を期した最後の夏、フォームの修正に取り組み、「バックを信じて打たせて取った」松橋は、初戦(2回戦)の聖心ウルスラ戦で奪三振は6ながら、140キロ超の速球とスライダーを軸に被安打2の完封勝利。「この試合は完投したかった。やっと過去2回の借りを返せた」とエースナンバーの意地を見せた。
V2がかかった決勝の京都外大西戦でも、松橋は4回2/3を3安打1失点に抑え、1年後輩の田中にリレー。2人で力を合わせ、57年ぶり6校目の夏連覇に大きく貢献した。
神宮でのプレーを夢見て進学した明治大では、故障もあり、リーグ戦に1度も登板できずに終わった。卒業後は野球を断念し、日本生命に就職。道東の帯広勤務時代には、甲子園優勝投手として子供たちに野球の指導も行っている。
09年夏の甲子園で、花巻東・菊地雄星(現ブルージェイズ)の153キロに次ぐ2位タイの149キロをマークしたのが、帝京の右腕・平原庸多だ。
高1秋に外野のレギュラーになり、三塁手を経て、3年時に肘を痛めた2年生右腕・鈴木昇太に代わってエース番号をつけた。当時の帝京は、ほかにも2年生の山崎康晃(現DeNA)、1年生の伊藤拓郎(元DeNA)と140キロ台後半を投げる速球投手が顔を揃えていたが、平原は夏の東東京大会で22回を投げ、20奪三振の1失点と安定。3番打者としても打率.409、2本塁打と投打にわたって活躍し、チームを2年ぶりの甲子園に導いた。