そして、原口文仁(現阪神)とバッテリーを組んだ初戦(2回戦)の敦賀気比戦で最速149キロを計時。8回に1年生の4番・吉田正尚(現レッドソックス)にタイムリーを許したものの、8回2/3を11奪三振の8安打1失点に抑えた。
だが、準々決勝の県岐阜商戦では、初回から球が走らず、3回途中4失点KO。試合も3対6で敗れ、平原は「あの出来では代えられても仕方がないと思います。でも、ダメだったら(下級生の投手に)代えられるという焦りはありました」と悔いを残して甲子園を去った。
将来はプロ入りを希望も、プロ志望届は出さず、アスリート選抜入試で立教大に進学。2年春から打力と強肩を生かして外野手に転向すると、3年秋にリーグ6位の打率.350をマークするなど、中心打者に定着し、4年時には主将も務めた。
卒業後は東京ガスで3年間外野手としてプレーした。(文・久保田龍雄)