この句は、江戸時代の画家でもあり俳人でもある与謝蕪村によって詠まれました。安永3年(1774年)、蕪村が、現在の神戸市灘区にある六甲山地の摩耶山(まやさん)を訪れたときの句です。菜の花の時期、西の空に夕日が沈むころ、空は茜色、摩耶山から見下ろす一面の黄色い菜の花、同時に見える月と太陽…穏やかに暮れゆく春の色と香りと空気感、さらには、月と太陽と大地と作者が一体化する瞬間が感じられる句です。では、春の日に、東に月、西に夕日が見えるというシチュエーションが整う日は、いったいいつなのでしょうか。
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太陽が西に沈む夕暮れ時に、月が東に見えるということは、その月は満月です。つまり、地球を挟んで月と太陽が、ほぼ一直線に並んでいるということです。これは、菜の花が咲く春だけでなく、雪が積もる冬でも、紅葉がきれいな秋でも言えることです。ただ、この3つの星がピッタリ一直線に重なってしまうと、月食になってしまいます。
反対に、夕暮れ時に月が西に見えれば、それは三日月です。月も太陽も西の方角にあると、月の一部にしか太陽の光が当たらないので、満月にはなりません。
つまり、夕暮れ時に東の空に月が見えるというこの句の月は、満月ということになります。
1774年、菜の花が咲く季節の夕暮れ時、月と太陽が同時に見えるのは4月中旬以降
この句は、安永3年(1774年)3月23日に詠まれたといわれています。当時は旧暦でしたから、今の暦で考えると、5月3日になります。しかし、月の位置を詳しく調べてみると、この日には実際に、東に満月、西に夕日が見えてはいませんでした。
菜の花が咲いている時期で、東に満月、西に夕日が見えるのは、旧暦の3月10日~15日くらい、今の暦でいくと、4月20日~4月25日となります。つまり、蕪村は実際に旧暦の3月23日に、東に満月、西に夕日を目にしてこの俳句を詠んだのではなく、その10日くらい前に見た光景を思い出しながら、3月23日にこの句を詠んだのではないかといわれています。
(参考:「日刊☆こよみのページ」2009/04/09 号 ⇒ http://koyomi.vis.ne.jp/cgi/magu/index.php?date=20090409)
菜の花を愛した蕪村、たくさんの菜の花の俳句を残している
蕪村は1774年の前年に摩耶山を訪れた際にも、菜の花の句を詠んでいます。
「菜の花や摩耶を下れば日の暮るる」
昔、摩耶山がある神戸市灘区では、菜種油を生産するために菜の花が栽培されていました。当時のこの地は、一面の菜の花畑が美しかったと思われます。
ほかにも、菜の花を詠んだ句がたくさんあります。
「菜の花を墓に手向けん金福寺」
「菜の花や遠山どりの尾上まで」
「菜の花や油乏しき小家がち」
「なの花や昼一しきり海の音」
「菜の華や法師が宿を訪はで過ぎ」
「なのはなや笋(たけのこ)見ゆる小風呂敷」
「菜の花やみな出はらいし矢走船」
「菜の花や鯨もよらず海暮ぬ」
「菜の花や和泉河内へ小商」
「菜の花や壬生の隠家誰々ぞ」
春の夕暮れ時、摩耶山の上から見下ろすと一面の菜の花畑、空を見上げると月と太陽が同時に見える…、そんな光景を見たとき、蕪村はどんな気持ちだったのでしょう。春のこの時期、菜の花を目にしたら、蕪村がどんな思いでこの句を詠んだのか、思いをはせてみてはいかがでしょうか。