2018年にマルチ・スズキが公開したEVコンセプトカー「eサバイバー」=インド・グレーターノイダ

 インドの巨大市場を狙い、日系企業もさまざまな事業分野でしのぎを削る。そこにはどんな魅力や苦労、展望があるのか。現地のビジネス事情を探った。AERA 2023年8月7日号の記事を紹介する。

【写真】ニューデリー近郊で開かれた自動車ショー「オートエキスポ」

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「スズキの車を見ない日はない」とインド滞在経験者は口をそろえる。それもそのはず。この10年間、スズキのインド国内での新車販売台数シェアは4~5割超で推移。「2台に1台がスズキ」という状況なのだ。ピークは1997年度の65.6%。「3台に2台近く」になる。スズキがインド市場で驚異的なシェアを占めるに至った背景には何があるのか。

 原点は約40年前の82年にさかのぼる。東京・帝国ホテルの梅の間。インド政府の「国民車構想」を託された調査団と面談していた、スズキの鈴木修社長(現相談役)は不意に立ち上がり、腕まくりしながらホワイトボードに工場のレイアウトを描き始めた。インド側の要望を踏まえた細かな運営方法などを社長自らが熱く語る姿は、調査団に強い印象を残した。

進出のハードル

 それから1カ月足らず。インド国営自動車会社の海外パートナーにスズキが選ばれる。同年10月にはニューデリーで両社の合弁契約書を調印。翌83年末までに、安価で高品質なインドの国民車となる第1号車をリリースする使命がスズキに課された。

 最初に立ちはだかったのは現地工場の建設だ。建設現場には重機が一台もなく、すべて人力の作業で進んでいた。見かねたスズキ側が機械の導入を提案したが、インド側は全く耳を貸さない。それにはインドの国内事情があった。当時、インドでは仕事量に対して人口があまりに多かった。このため、建設現場もあえて機械化せず、労働者をできるだけ多く雇用するのが国の政策方針だったのだ。

 最大のハードルは日本の「労働文化の移植」。全員が同じ制服を着て、社食に集まって食事をするのには強い抵抗を示す社員が少なくなかった。この課題克服に寄与したのは、日本の工場での研修制度だ。2006年までに1772人のインド人スタッフが参加し、「日本式」の定着につながった。

 83年4月に予約受け付けを開始した1号車の「マルチ800」は第1次の予約受け付けで13万台近くを受注し、大成功を収めた。これが販売と修理を担う販売店をインド全土に築く足がかりになった。国営合弁会社の民営化に伴い、スズキは02年、同社の経営権を取得。07年に社名を「マルチ・スズキ・インディア」(以下、マルチ・スズキ)に変更した。現在、販売店数は3640店(今年3月末)。この販売・サービス網がインド進出成功のカギと話すのは、マルチ・スズキの前社長で、スズキの鮎川堅一副社長だ。

「都市部だけでなく、地方の村レベルにまで張り巡らせることで、お客様が安心してスズキ製品をお使いいただけるようにしました。また、インドは地方によって言語も異なるため、地元に精通した駐在販売責任者も採用しています」

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渡辺豪

渡辺豪

ニュース週刊誌『AERA』記者。毎日新聞、沖縄タイムス記者を経てフリー。著書に『「アメとムチ」の構図~普天間移設の内幕~』(第14回平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞)、『波よ鎮まれ~尖閣への視座~』(第13回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞)など。毎日新聞で「沖縄論壇時評」を連載中(2017年~)。沖縄論考サイトOKIRON/オキロンのコア・エディター。沖縄以外のことも幅広く取材・執筆します。

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