敵じゃなくて人間と思った。人間だったらどうしてほしいかを考えた

 長崎には、原爆で死んだ連合軍の捕虜が8人おりました。誰も、名前も遺影も登録していませんでした。ようし、私がやってやろう。誰にも頼まれもしないのに、義俠心(ぎきょうしん)だけでやりました。現在8人のうち6人の名前と遺影を登録することに成功しました。あと2人、名前はわかっているんです。けれども、登録するのは遺族です。私はこの2人の遺族を発見していないので、まだ登録はしておりません。

 原爆で死んだ米兵は、呉湾にいた戦艦を攻撃しに来て、逆に戦艦の大砲を浴びて、飛行機が撃墜されました。それを初めからずっと研究した人が、伊陸(いかち、山口県柳井市)という飛行機が落ちた所にいました。その人が私に、飛行機がどういうふうにして呉市から伊陸に飛んできて、どう墜落したか、ということを詳細に研究した資料を送ってくれました。ですから、自分の肉親が原爆で亡くなったアメリカ人の遺族は、人が思いもよらないぐらいの悲しみを、ずっと子々孫々まで伝えているということがわかりました。

(米ジョージア工科大学の)みなさんはこうして広島においでになって、いろいろなことを勉強されると思うけれども、アメリカ人の、あるいはオランダ人やイギリス人(長崎で被爆死した連合軍捕虜)の悲しみというのは、子々孫々まで負わされていくんだということをご理解いただければと思います。

(この講話を聞いた米ジョージア工科大学の一行からの質問)「森さんは米兵に対して、かわいそうだという気持ちからご遺族を探して、わざわざ手紙まで書いた。それはどうしてなんですか」

(森氏の回答)米兵は敵だとみなさん思っているでしょうけど、私は敵じゃなくて人間と思った。人間だったらどうしてほしいかを考えたとき、あの人たちにも親がおり、きょうだいがおり、子どもがおり、その人たちが心配しているだろうと思った。情報を何も知らされていないのだから、私が知っている情報を教えようと思った。そうして教えたら、とっても喜んだ、それで続けてやっているのです。