広島の原爆死没者慰霊碑(写真提供:朝日新聞社)

広島の原爆死没者慰霊碑(写真提供:朝日新聞社)

 1945年8月6日、米軍が広島に原爆を投下した。その年だけで約14万人が犠牲になったとされる。被爆死した人々の中には、12人の米兵捕虜たちもいた。そうした事実を手弁当で調べ上げ、遺族に知らせ、追悼平和祈念館に登録し慰霊を重ねてきたのが、在野の歴史研究家で被爆者の森重昭(しげあき)氏(86)だ。

 2016年5月27日、現職の米国大統領として初めて広島を訪れたバラク・オバマ氏に抱き寄せられた姿が世界に配信され、「時の人」となった。半世紀にも及んできた森氏の取り組みは今も続いている。その執念ともいえる調査の根幹にある原爆体験について、著書『原爆の悲劇に国境はない 被爆者・森重昭 調査と慰霊の半生』(森重昭、森佳代子/副島英樹編)から一部抜粋、改編して紹介する。

【前編】よりつづく

米軍機「B29」の爆音を確認する授業

 私は陸軍の(広島陸軍偕行社附属)済美(せいび)国民学校に、幼稚園から2年生まで通いました。済美国民学校で記憶に残っているのは、敵機の爆音を聞く、そういう訓練をしていたことです。米軍機の音を確認する授業です。そういうことをやっているなんて、おそらく誰も知らないんじゃないかと思いました。でもあのころはみんな必死でやった。私も必死で勉強した。B29の音に敏感なんてもんじゃない、命がかかっているんだから。だからB29が上空に来たときに、「これはB29だ」 というのが誰よりもよくわかりました。毎日聞いているんだから敏感だったんですよ。

 5 月になると、3 年生から6 年生まで集団疎開に行かなければならない。けれども、私を可愛がってくれました祖母が、爆弾が落ちて死ぬんだったら家族全員で一緒に死のうと言い出しましたので、結局私は集団疎開に行きませんでした。ところが学校としましたら、大変困りました。一人の生徒のために先生を一人用意するわけにいきません。結果、私は地元の己斐国民学校に転校したために命が助かりました。済美にいたら原爆で死んだことでしょう。僕のいとこは自分の母親が爆心地から800 メートルのところで被爆しているんですけれども、家の柱が体の上に落ちてきて、それで焼け死ぬんです。その断末魔の声をどうしても忘れられないと、ずっと言っていました。

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校庭で見た遺体の山