森重昭、森佳代子/副島英樹編『原爆の悲劇に国境はない 被爆者・森重昭 調査と慰霊の半生』(朝日新聞出版)
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校庭で見た遺体の山

 8月6日の夜、防空壕の外に少し出てみました。そしたら、自分が服代わりにまとっていた新聞の文字が見えました。あたりが明るくなっていたんです。それというのも、広島市内は全部火の海。8月6日は火の海。だから明るかったのだと思います。その防空壕には3日間おりました。3日間、水も飲まない、食事もしない。いや、できない。食べるものも、飲むものもなかった。気が狂いそうになりましたよ。特に水を飲まなかったので、もう持たないなあと思った。

 4日目に防空壕から出ました。これは伝聞でうわさでしたが、学校(己斐の国民学校)に行ったら、むすびがもらえるという話が聞こえてきました。それを取りに行ったら、もらえないどころか、むすびの代わりに見たのは遺体の山でした。校庭にね、普通だったら遺体をずらっと横に並べると思うでしょうけれども、そうじゃなかった。ピラミッドのように高く積み上げられていた。次から次へね、自分の肉親が死んだかどうかを確かめるために、随分たくさんの人が学校に来たんですよ。ところが、遺体は全部真っ黒焦げ。男性と女性の区別もつかない。どうやって調べたか。口を開けたんですよ、みんな。口を開けるんですよ。金歯が目印。そのために、遺体を積んでいた。

 済美国民学校の隣に、中国憲兵隊司令部がありました。呉を空襲中、日本軍に撃墜され、逮捕された米兵がそこに収容されていました。その中の一人が、済美国民学校の校庭で被爆死していたのです。日本人の小さな遺体の中に、大きな白人の遺体があったので、すぐわかりました。校長の書いた手記を見て、中国憲兵隊司令部から逃げてきたということを知りました。

被爆した米兵はひっそりと死んでいた

 私は被爆直前に転校したから助かったのですが、転校しなかったら、米兵と同じ運命をたどったことだったと思います。米兵の名前も、所属もわかりません。ましてや郷里などわかるはずがありません。ひっそりと米兵は死んでおりました。彼には親きょうだいもいたかもしれませんが、全然それはわかりません。私はこの米兵を、敵とは考えないで、相手を人間だと見たのです。きょうだいを探し出してみたい、探し出してみましょう、そう思いました。 私の挑戦が始まりました。

 当時アメリカにいた2億人の中から、たった12人の米兵の遺族を探し出すのです。お金はありません。資料もありません。手助けする人などもちろんありません。あるのは情熱だけ。でもね、やりました。やってやってやりまくる。そしてついに、全員を探し出しました。それを評価してくださったのが、誰あろう、アメリカの現職の大統領(当時)、バラク・オバマ氏でした。うれしかった。だけど私は、大統領に話をする機会を与えられていたのですけども、当日は全部忘れてしまいました。涙を流す私を見て、大統領は、あの長い手を伸ばして、私を自分のほうに抱き寄せてくださいました。お互い言葉を交わしませんでしたけれども、意思は通じたと思います。

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敵じゃなくて人間と思った。人間だったらどうしてほしいかを考えた