被爆者の森重昭さん(手前)を抱き寄せるオバマ米大統=2016年5月27日、広島市の平和記念公園/朝日新聞社
被爆者の森重昭さん(手前)を抱き寄せるオバマ米大統=2016年5月27日、広島市の平和記念公園/朝日新聞社
この記事の写真をすべて見る

 1945年8月6日、米軍が広島に原爆を投下した。その年だけで約14万人が犠牲になったとされる。被爆死した人々の中には、12人の米兵捕虜たちもいた。そうした事実を手弁当で調べ上げ、遺族に知らせ、追悼平和祈念館に登録し慰霊を重ねてきたのが、在野の歴史研究家で被爆者の森重昭(しげあき)氏(86)だ。

 2016年5月27日、現職の米国大統領として初めて広島を訪れたバラク・オバマ氏に抱き寄せられた姿が世界に配信され、「時の人」となった。半世紀にも及んできた森氏の取り組みは今も続いている。その執念ともいえる調査の根幹にある原爆体験について、著書『原爆の悲劇に国境はない 被爆者・森重昭 調査と慰霊の半生』(森重昭、森佳代子/副島英樹編)から一部抜粋、改編して紹介する。

*  *  *
 今からお話をしますことは、今より78年も前の話でございます。原爆で亡くなった米兵捕虜の話を中心にいたしますので、そのつもりでお聞きいただきたいと思います。

 私は森重昭と申します。被爆者です。1937年3月29日、広島市で生まれました。己斐(こい)という町です。77年前ですけども、8歳のときに爆心地から2.5キロの場所の、橋の上で被爆をいたしまして、川の中に落ちました。幸いやけどもせず、傷も負わないで、無傷のまま、黒い雨の中におりました。キノコ雲の中は、真っ暗でした。だんだん寒くなりました。太陽がキノコ雲に遮られまして、温度が下がっていたのです。

 8月6日のその日は、朝7時ぐらいに起きたと思います。家を出たのは朝8時10分ごろだったと思います。家の前に旭山神社への登り口があって、ここに2本の橋がかかっておりました。ただし、今のような鉄筋コンクリートではなくて、木造だったように思います。2本の橋のうちの右側の橋を、私を含めて全部で3人が通っておりました。

 爆心地に近いほうの2人の陰に私はおりましたので、おかげさんで私はやけどもしないし、けがもしない。ただし、吹っ飛んだ。原爆が落ちた途端に吹っ飛んで、私は長い間、爆風で飛ばされました、とこれまで言ってきましたけど、よく考えてみれば、爆風なんてもんじゃない。まばたきする間もないような、0.1秒の間に数十万もの気圧がかかるすさまじいものですよ。この数十万気圧に圧縮された空気が私を吹っ飛ばした。

次のページ
ピカは知っていますけども、ドンは知りません