3月17日、「任天堂、DeNAと提携してスマホゲームに進出」というニュースが報道されると、東京証券取引所では任天堂の株価がストップ高を記録、さらに同日、“Wii U”に続く新たな家庭用ゲーム機“NX(開発コード名)”が発表された。家庭用ゲーム機市場をけん引してきた任天堂がDeNAと提携して、スマホゲームに参入することは、大きなインパクトを与える出来事なのだ。
だが、「家庭用ゲーム機の時代が終わるから、DeNAと提携する」という単純な話ではないようだ。その理由は、任天堂の歴史が教えてくれる。
そもそも、任天堂の創業は1889年、大日本帝国憲法が公布された年である。当時は、ゲーム機などあるはずもなく、創業者である山内房治郎が始めたのは「花札」の製造である。さらには日本で初めてトランプを製造したという記録も残っている。
任天堂と言えば「ゲーム」というイメージを持つかもしれないが、昔はおもしろい玩具をたくさん作っていたのだ。40代以上の方なら記憶にあるかもしれない「マジックハンド」(商品名はウルトラハンド)、光と音で楽しめる「光線銃」、男女2人の相性を判定する「ラブテスター」、これらはすべて任天堂の商品である。
また、1970年代の遊戯場に設置されていた「レーザークレー射撃システム」も任天堂が生み出した商品だ。「遊戯・玩具」であれば、あらゆるものに挑戦してきたのだ。
1971年には、「MCMコピラス」という簡易コピー機を販売している。これは10万台を超えるヒット商品だったと記録されている。長い歴史の中で数少ない「ビジネスユース」の商品だ。
そして、1977年、「テレビゲーム15」や「テレビゲーム6」という家庭用ゲーム機を発売する。これは、“テレビでゲームができる”という、それまでになかった遊びの提供であり、まさにファミリーコンピュータの原型といっていいものだった。1980年には、携帯型ゲーム機の原型と言える「ゲームウオッチ」が販売される。これは後の「ゲームボーイ」「NINTENDO DS/3DS」の原型と考えてもいいだろう。
その後の任天堂は家庭用ゲーム機の歴史とほぼ重なる。ファミコンブームを経て、スーパーファミコンが登場し、家庭用ゲーム=ファミコンという認識さえ生まれた。当時、任天堂のライバルだった、SEGAはコアなユーザーの人気はあったものの、常に任天堂の後塵を拝し続けた。ゲーム機としての性能そのものは、必ずしもファミリーコンピュータが優れていたわけではないが、ソフトの数、そのクオリティーでライバルの追随を許さなかった。
しかし、「任天堂の時代が終わった」と言われた時期がある。1994年、次世代ゲーム機戦争と言われたときだ。SONYの「プレイステーション」が発売されるなか、任天堂はスーパーファミコンに続く最新ゲーム機「NINTENDO64」の投入が遅れてしまったのだ。数多くの人気タイトルが「プレイステーション」に流れ、それまでの家庭用ゲーム機=任天堂という構図が崩れてしまった。「これからはプレイステーションの時代だ」とゲーム業界では語られていた。
だが、任天堂は甦る。高機能化、大型化する家庭用ゲーム機ではなく、手軽さを追求した携帯ゲーム機「ゲームボーイ」が大ヒット。2004年には“NINTENDO DS”が登場する。家庭用ゲーム機でも“Wii”が登場し、かつての地位を取り戻しているように見えた。
任天堂の歴史をふり返って感じることは、「新しい体験の提供」だ。ゲームと言えばゲームセンターでするものという時代に、家庭用ゲーム機を送りだす。それが普及し、ゲームはテレビの前でするものになると、携帯型ゲーム機を送りだす。そこにライバルが追随してくると「ゲームは一つの画面でする」という固定概念を覆すデュアルスクリーンのNINTENDO DSを開発する。タッチスクリーンでのゲーム操作はスマホゲームでは当たり前だが、その走りはNINTENDO DSだ。家庭用ゲーム機Wiiでもボタン操作にとらわれず、「振って操作する」という新しい体験を生み出した。
そんな会社が「スマホゲームの市場が大きくなったので」という理由だけで、DeNAと提携するだろうか? 提携によって「新しい遊びの体験」を作ろうとしていると考えるのは自然なことに思える。
最後に付けくわえておきたい。任天堂は現在もトランプや花札、麻雀牌、将棋、囲碁、百人一首を作り続けている。家に花札や百人一首があれば、メーカーを確認してみるといい。かなりの高確率で任天堂の社名を見ることができるはずだ。
任天堂は、「遊びを提供する」という点は100年以上、ぶれていない。
(ライター・里田実彦)