「この映画は光についての映画だよ。制作が始まった初期の段階、17年1月5日に僕は心臓発作を起こし昏睡状態に陥り、デヴィッドの一周忌、1月10日に意識が回復した。当時の僕は仕事にとりつかれた生活を送り自分を酷使していた。家族をほったらかし48歳で死ぬっていうのは、子どもたちへの良いお手本とはいえない。あの体験が、僕にとっては、人生とは何かという哲学的で大きな問いについて考えさせられる機会となった。その人生観の変化をくぐり抜けつつ、ボウイについて再考することになったんだよ」
──ボウイはあなたにとってどんな存在ですか。
「彼は驚くべきパフォーマーでありアーティストだったばかりではなく、偉大な人間だったと痛感している。聖人のような人だった。そのことから、彼の人生を通して、人間はいかに生きるべきかを表現できるのではないかと思った。21世紀において、満足できる人生を送れるのか、というテーマに取り組もうと思ったんだよ。正直言って、『子どもたちに向けて』というのは言い訳かもしれない。自分自身に向けてだったのかもしれない」
■ボウイは文化の新しい扉である
──さまざまな時代のさまざまなボウイの発言を、ナレーションのように繋いでいった意図は?
「映画を観てもらえば気が付いてもらえると思うが、生きることの大切さ、ありがたさが繰り返し台詞として登場するのは、偶然ではないんだよ。人生の価値を学び、再生することの大切さ──。人間誰もが、死に向かって歩いている。カンヌ映画祭のプレミアでは、大勢の人と一緒に初めてこの映画を鑑賞したが、ボウイは観客に話しかけているばかりではない、自分に話しかけているんだと感じた。最初から最後まで。それは緊張感あるインテンスな体験だった。ボウイのどの言葉も、僕の死に近づいた体験に結びついているように感じたんだ」